NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/6


善峯寺 Yoshimine-dera 

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 善峯寺(よしみねでら)は、京都西京区にある寺で、西国三十三観音霊場の第二十番札所にも指定されている。
 長元二(1029)年、源算上人によって開山されたのがその始まりで、長元七(1034)年には後一条天皇より国家鎮護の勅願所とされ「良峯寺」の寺号を賜ることとなる。
 その後の鎌倉時代初期に、後鳥羽上皇から直筆の寺額を賜ったことにより、現在の善峯寺に改められた。
 応仁の乱で焼失してしまったものの江戸時代に入り、五大将軍綱吉の母であった桂昌院の援助により再建がなされた。現在に残っている伽藍の多くはこの時再建されたものである。
 その敷地は広大で西山随一とも謳われ、また高低差のある起伏に富んだ境内は四季の花々で美しく彩られ、国の天然記念物にも指定されている五葉の松などが訪れる人を楽しませてくれる。
 開祖である源算上人は一一七歳という長寿を全うしたとされ、病気平癒や長寿、健康のご利益でも知られる名刹である。
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2007/12/20


磯出大祭礼 Isode-daisairei 

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 磯出大祭礼(いそでだいさいれい)は、茨城県常陸太田市にて七二年に一度ごとに行われる珍しい祭りである。
 県北にある西金砂神社と東金砂神社の神様が、日立水木浜まで一週間かけて往復するもので、次回の開催は2075年となる。
 西金砂神社は、天台沙門宝珠上人が比叡山より分霊したと伝えられる神社で、東金砂神社は、平城天皇の勅願によって宝珠上人が山王権現の分霊を奉斎したのが起源とされる。共に大同元(806)年に創祠され、祭神は大己貴命(おおなむじのみこと)。
 磯出大祭礼は、仁寿元(851)年から一度も途絶えることなく続いている神事で、神が水木浜に上陸した時に夢告したとの伝説から、両神社から水木浜まで奉納の田楽を催しながら、大行列が行われるようになったとされる。
 磯出大祭礼は、七二年に一度しか開催されない壮大な祭りである。
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2007/12/14


泰平寺 Taihei-ji 

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 鹿児島県薩摩川内市にある泰平寺(たいへいじ)は和銅元(708)年、元明天皇の勅願寺として天下泰平を祈願して創建された。当初から七堂と堀を備える大伽藍であった。
 戦国期には豊臣秀吉の九州平定時の本陣となり、秀吉と島津氏の和睦会の場となる。その際住持である宥印法印(ゆういんほういん)が和睦の斡旋に尽力したという。現在も宥印法印の墓石の横に記念の和睦石が残っている。 
 泰平寺を舞台とした民話「塩大黒」も残っている。この地方で塩が手に入らなかった頃、お坊さんが大黒天像に愚痴をこぼすと、大黒天像が本堂から消え甑島(こしきじま)から塩をどっさり持ってきたという話だ。
 寺は明治の廃仏毀釈にて取り壊され、大正時代に再建された。創建当初からの秘仏、薬師寺如来は行方不明となるが、大黒天像は難を逃れる事ができた。大黒天像は黒く煤けた木製の立像で、愛嬌のある柔和な笑みを浮かべている。
 平成二〇(2008)年は創建一三〇〇年にあたり、記念大法要が執行される。
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2007/12/11


青梅 海禅寺 Oume Kaizen-ji 

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 青梅市二俣尾にある海禅寺(かいぜんじ)は、辛垣山(からかいやま)の南麓にある。本尊は釈迦如来で、本山を永平寺と総持寺とする曹洞宗の寺で知られる。
 寛正年間(1460~1465)この地に草庵ができたのが始まりである。当時、奥多摩を支配していた三田氏の菩提寺として、三田綱秀が天文年間(1532~1554)に再興したが、その後三田氏は二俣尾の辛垣城で北條氏照により滅ぼされ、兵火により全山焼失した。その後、天正三(1575)年に復興され勅願所に列せられ、江戸時代には寺領一五石を拝領し、京に末寺を持つほどに栄えた。
 参道の途中に青梅線が走るようになってから、道路わきに慶長一七(1612)年建立の総門が移築された。青梅線の踏切を渡ると、石垣が続いており、季節になると朱色のつつじが斜面を彩る。
 石段の上には、寛政五(1793)年に建てられた山門がある。また本堂は火災により焼失し、平成四(1992)年、復元し再建された。
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2007/12/3


高知 岩本寺 Kouchi Iwamoto-ji 

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 四国霊場第37番札所である岩本寺(いわもとじ)は奈良時代、行基が聖武天皇の勅願により高岡神社の別当寺として造立したものとされる。
 天正年間(1573~1592)の兵火によって焼失、その後釈長僧都により再興され、寺名を藤井山・岩本寺と改め現在に至る。
 本堂は昭和五三(1978)年の再建で、格天井には壇家を中心とした人々によって奉納された極彩色の板絵、575枚がはめ込まれており、阿弥陀如来、観世音菩薩、不動明王、薬師如来、地蔵菩薩の五体の本尊がある。
 寺には、一年に三回実るといわれる「三度栗」や、旅の女性を安産に導いた「子安桜」など、弘法大師ゆかりの七不思議が残されている。
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高知 延光寺 Kouchi Enkou-ji 

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 四国霊場第39番札所である延光寺(えんこうじ)は、神亀元(724)年、聖武天皇の勅願を受けた行基が開基、本坊と一二坊を建立し、当時は亀鶴山施薬院宝光寺と称していた。
 境内に延喜一一(911)年の銘が刻まれている梵鐘がある。これは亀が背中に乗せて、竜宮城から持ち帰ったものといわれており、県内最古の梵鐘で国の重要文化財にも指定されている。
 また、本堂横の「目洗いの井戸」は、村人が飲み水に困っているのを知った大師が、杖で地面を突くと霊水が湧き出たものといわれ、眼病に効果があると言われている。
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2007/11/28


宝積寺 三重塔 Housyaku-ji Sanjuu-no-tou 

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 京都郊外に「宝寺」と呼ばれる寺院がある。宝積寺(ほうしゃくじ)だ。聖武天皇が皇子だった時、夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」を祀ることから、いつしかこれが通称となった。宝積寺では、打出は弁財天の、小槌は大黒天のものと伝えられている。
 奈良時代の神亀元(724)年、聖武天皇の勅願で行基が開基したと伝わり、寺が建つ天王山は古くからの要衝であった。本能寺の変で信長を討った明智光秀と羽柴秀吉が衝突した「山崎の戦い」の舞台となり、岡山から急きょ引き返してきた秀吉はここに本陣を敷いた。
 境内には文化財が多く、十一面観音菩薩立像、三重塔などが国の重要文化財に指定されている。
 三重塔は、秀吉が山崎の戦いに勝利した記念にわずか一晩で建立したといわれ、「一夜造りの塔」とも呼ばれている。高さ19・5m、本瓦葺で、塔の内部には四天柱と来迎壁があり、須弥壇(しゅみだん)が設けられ大日如来が安置されている。
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石峯寺 三重塔 Shakubu-ji 

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 神戸市北区淡河(おうご)にある石峯寺(しゃくぶじ)は、真言宗の寺院で、延命地蔵尊を本尊とする。
 白雉二(651)年、インド僧・法道仙人の開基とされ、孝徳天皇の勅願寺として建立された。その後、天平一九(747)年には行基によって薬師堂が、また弘仁一四(823)年には嵯峨天皇によって三重塔が建立されたといわれる。
 三重塔は24・41mの高さを誇り、兵庫県下で一、二を争う。現在の塔は、兵火による焼失のため室町時代に再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。
 第一層の高さに比べて第二層、第三層の軒の高さが著しく低いのが特徴で、安定感は抜群である。また、相輪は輪の大きさが上に行くほど小さくなり、塔を高く見せる工夫も施してある。
 内部には四天柱と来迎柱があり、須弥壇が設けられ大日如来が安置されている。雪化粧した塔は朱と白のコントラストが映えて特に美しい。
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