NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/25


金重陶陽(人間国宝) KaneshigeTouyou 

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 かねしげ・とうよう。明治二九(1896)年一月三日~昭和四二(1967)年一一月六日。岡山県出身の陶芸家で、昭和三一(1956)年、備前焼の陶工として初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
 和気郡伊部村(現在の備前市伊部)に生まれた陶陽は、備前焼の窯元であった父・楳陽に陶技を学ぶ。二二、三歳の頃には、その技術の高さが近隣の窯業地帯に知れ渡り、村まで引き抜きに訪れる者がいたほどだったという。
 初めは細工物を制作していたが、後に桃山備前の研究に取り組み、ついに予期しない色を生み出す「窯変(ようへん)」を人為的に作ることに成功。桃山備前を現代に甦らせた。また、昭和七(1932)年にはろくろによる作陶を開始、以降は茶陶を中心とする制作を続けた。
 有田焼や九谷焼などに押されて人気を失っていた備前焼を再興させた陶陽は、「備前焼中興の祖」と称される。自らが優れた陶工であっただけでなく、多くの弟子を育て、その中から人間国宝が輩出するなど、功績は計り知れない。
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2007/11/5


河後森城跡 Kagomori-jo-seki 

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 「河後森城跡(かわごもりしろあと)」と書かれた大きな石碑が立つ登山道入り口。そこから自然散策をしつつ、中世の歴史を残す城跡を見てまわることができる。また山頂からの素晴らしい展望も見物である。
 河後森城跡は伊予と土佐の国境におかれ、1997年に国の史跡に指定された、指定面積二〇二・〇三八平方メートルという県下最大級の中世城郭跡である。
 鎌倉時代から江戸時代初期まで、約四〇〇年あまりに渡ってこの地域を支配した宇和郡領主・西園寺氏の旗本、河原淵(かわらぶち)氏の豪壮な居城跡。戦国時代には長宗我部(ちょうそかべ)軍勢と戦った古戦場でもあるという。
 城郭内からは当時の面影を残す沢山の貴重な遺構や、当時中国から運ばれた陶磁器、国産の備前焼の壷、多くの瓦など、遺物が多数出土しており、現在も発掘調査や整備が続けられている。
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2007/4/25


堀江祥山 Horie Syouzan 

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 1923(大正十二)年、生まれ。備前焼の伝統工芸士。
 37年、窯元興楽園で修行、64年独立。68年備前陶心会設立、83年に伝統工芸士に認定。
 備前陶心会初代会長。岡山県備前焼陶友会理事。日本伝統工芸展、日本陶芸展など多数入選。
 備前焼は千年の歴史を持ち、日本六古窯の一つに数えられる。釉薬を使わず、窯で焼く際の窯変により生み出される変化と素朴な味わいが古来より多くの人々に愛されてきた。
 氏は自身の手で作った登り窯で半年に一度、十日間にもおよぶ窯焚きを行なって、納得できる作品を模索する。
 今までもこれからも、素晴らしい作品を作り続ける職人である。
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2007/1/30


伊勢崎淳(人間国宝) Isezaki Jun Jun Isezaki (Living National Treasure)

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 昭和十一(1936)年2月20日生。 平成十六(2004)年、重要無形文化財「備前焼」の保持者(人間国宝)に認定された。
 細工物を得意とした伊勢崎陽の二男として生まれ、幼い頃から陶芸を学び、昭和三十四(1959)年に岡山大学特設美術科を卒業した後本格的に陶芸の道に入った。
 昭和三十五(1960)年、兄・満とともに、姑耶山の古窯跡に備前初の中世の半地下式穴窯を復元。「備前で、借り物ではない自分のひとつの道を見つけていきたい」との言葉通り、歴史の延長線上に新しい創造性を表現したオリジナリティあふれる作品を数々世に問うている。作品は花器、皿、茶陶のほか陶壁、オブジェなど伝統的なものから造形的なものまで作域は幅広い。 
「新しいものを作ってこそ、そのつながりが伝統になる」というのが氏の哲学。いつまでも枯れることのない創造力で、今でも備前焼界をリードしている。
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2007/1/25


閑谷学校 Shizutani-gakkou Shizutani Gakko

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 閑谷学校(しずたにがっこう)は、備前藩主池田光政の命により、約330年前に作られた日本最古の庶民の学校。岡山県備前市閑谷に所在する。創立以来、儒教精神に基く教育がなされ、他藩からの入学者、学者、文人の来遊も相次いだとか。明治以降は旧制中学、新制高校へと変遷、現在は県青少年教育センターとなっており、三百余年の間、優秀な人材を送り出している。
この建造物の最大の特色は、屋根瓦に備前焼を用いていること。そのためにわざわざ近くに窯を築き、伊部から陶工を呼んで焼いたという。その結果、いかにも儒学の殿堂にふさわしい雰囲気を醸し出している。学校の周囲をぐるりとめぐるかまぼこ型の石塀も美しい。中国の唐様を真似たもので、石積みが精密を極め全体によく調和している。
閑谷学校は、講堂をはじめ石塀や敷地内のほとんどの建物が国宝・重要文化財に指定されているという。
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2006/12/22


備前焼 Bizen-yaki Bizen Pottery

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 備前焼(伊部焼)とは、岡山県備前市伊部(いんべ)地区周辺を産地とする陶器、?器。
 平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代後期には酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれた。当時の作品は「古備前」と呼ばれ珍重される。
 茶道の発展とともに茶陶としての人気が高まるが、江戸時代には茶道の衰退と共に衰える。
 昭和に入り金重陶陽らが桃山陶への回帰をはかり芸術性を高めて人気を復興させた。
 陶陽自身や弟子達からも人間国宝を輩出し、備前焼の人気は不動のものとなった。
 釉薬(うわぐすり)を使わず「酸化焔焼成」によって堅く締められた赤みの強い味わいや、「窯変」によって生み出され一つとして同じ模様にはならないのが特徴である。
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2006/11/29


藤原啓(人間国宝) Fujiwara Kei(Ningen-kokuhou) Kei Fujiwara, a Living National Treasure

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 明治三十二年、現在の備前市穂浪生まれ。備前焼、藤原備前の祖である。
藤原啓はもともと作家志望であり、備前焼を手掛けたのは昭和十四年の春、つまり氏が四十歳の時である。
 二十歳の時に代用教員の職を投げうって上京し、文学だけに留まらず絵や音楽を学び、さらには映画の脚本・制作まで手がけていたが、文学への道は開けぬまま、ついに昭和十二年、十八年の東京の生活を捨てて郷里へ戻った。三十八歳の時の事である。
 その後、正宗白鳥の弟、正宗敦夫より備前焼きを薦められるが、中年で素人の藤原に売れる作品などが簡単に作れる筈もなく、陶芸家として立脚するには長い歳月を要した。
 備前焼作家として評価のあった全重陶陽との親交が氏の技術を進展させ、後に全重・藤原の両氏は共に人間国宝として認められるほどに円熟したものになる。その素朴で実直な作風で多くの人々から親しまれ愛されている。
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