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2007/12/10


寛永通宝 Kaneitsuuhou 

Jp

 寛永通宝(かんえいつうほう)は、江戸時代を通じて広く流通していた銭貨である。
 徳川幕府は、開府当初から貨幣の統一に着手し、慶長六(1601)年、金貨銀貨の制度を整えた。しかし、銭貨は中世以来の渡来銭がそのまま使われていた。
 寛永一三(1636)年、銅の生産量が増大したことを契機に、幕府は江戸浅草・江戸芝・近江坂本の3箇所に銭座を設け、「寛永通宝」の生産を開始した。
 幕藩体制の確立と共に全国に普及し、創鋳から30年ほど経った寛文年間頃には、永楽通宝をはじめとする渡来銭をほぼ完全に駆逐し、貨幣の純国産化を実現した。
 形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「寛永通寳」の文字が上下右左の順に刻印されており、材質は銅製の他、鉄、精鉄、真鍮製のものがあった。
 寛永通宝は、銭形平次が劇中で投げる事でも知られる、江戸時代を通して最も一般的な銭貨である。
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2007/1/9


阿波和紙 Awawasi Awawashi Paper

Jp En

 阿波和紙は、阿波(徳島県)の麻植郡山川町を中核として漉かれた紙で、地元特産の藍を使った染紙が多く作られた。
 阿波和紙の始まりは、1300年ほど前、朝廷に仕えていた忌部族がこの地に入り、麻や楮を植えて紙や布の製造をした記録が古語拾遺(807年)に見られる。
 江戸時代に入り、寛永十三(1636)年、藩の政策として製紙業に力を入れはじめ、農家の副業に紙づくりを奨励した。阿波藩の藩札や奉書、仙画紙などの御用紙の他、特産の藍を使った藍染和紙により全国にその名が知られた。
 その後は明治二十三年のパリ万国博へ出品されるなど繁栄し、紙すきの戸数も明治の最盛期には合計700戸を数えた。
 現在は日常生活での必需品は洋紙へと移行し、和紙が創り上げてきた伝統的生活文化は、日々の暮らしから離れつつあると言える。
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