NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/9/19


竹田神社 Takeda-jinja 

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 竹田神社(たけだじんじゃ)は、鹿児島県南さつま市加世田武田にある神社である。祭神は島津忠良。
 文明一七(1485)年、保泉寺として島津国久が創建し、永禄七(1564)年、日新寺として島津忠良が再興した。
 明治時代になって廃仏毀釈により廃寺となったが、明治六(1873)年、島津忠良を祀る竹田神社として改宗・再興された。
 日新公とも言われる島津忠良は、かつて三州統一の道を切り開いた戦国時代の薩摩領主で、その境内にあるイヌマキの並木には、人生について詠まれた訓話など、四七首のいろは歌の歌碑が点在しており、市民の憩いの場となっている。
 毎年七月二三日には六月灯が行われており、水車からくりや稚児舞、二才舞(にせまい)などが披露されている。
 竹田神社は、薩摩領主・島津氏に深いゆかりのある神社である。
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野間神社 Noma-jinja 

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 野間神社(のまじんじゃ)は、鹿児島県南さつま市笠沙町にある神社である。祭神は瓊々杵尊(ににぎのみこと)、木花咲姫尊、火須勢理尊、彦火々出見尊、火照尊。
 創始の年代は不明であるが、神社そのものは往古よりあったと伝えられ、瓊々杵尊を祀る日本最古の神社とされる。
 神社は元々標高591mの野間岳山頂にあり、東宮と西宮に分かれて野間権現と呼ばれていた。
 天文二三(1554)年、島津忠良が東宮を、永禄一〇(1567)年には西宮も再建した。
 文政一三(1830)年、台風によって社殿が崩壊したため、神社を山頂から八合目まで下ろし、島津斉興により東宮と西宮を統合して1つの社殿として、現在地に再建された。
 野間神社は、昔から崇敬され続けてきた古社である。
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2007/9/18


大浦太鼓踊り Ooura-taiko-odori 

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 大浦太鼓踊り(おおうらたいこおどり)は、鹿児島県南さつま市大浦町の日新祠堂(じっしんじどう)にて、毎年八月一五日のお盆に奉納されている踊りである。
 日新祠堂は、永田・吉見家の庭内にある、戦国時代の薩摩領主・島津忠良の位牌を祀る場所で、祭神は日新公の別名もある島津忠良。
 踊りの起源・起因はよく分かっていないが、忠良が大浦へ遊行した際に供覧に添えたとか、忠良自身が振り付けしたとか、それ以前から存在したなど諸説ある。
 踊りは、鉦2人、小太鼓2人、歌い手3人、大太鼓16人で構成され、大太鼓は白装束で太鼓に背旗、鉦・小太鼓・歌は花笠のかぶりものをして踊る。
 当日はまず日新祠堂に奉納し、西福寺で戦没者を慰霊して踊り、その後いつくかの集落にて踊る。
 大浦太鼓踊りは、地元では盆踊(ぼんのおどり)とも言われる郷土芸能である。
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士踊り Samurai-odori 

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 士踊り(さむらいおどり)は、鹿児島県南さつま市加世田の竹田神社にて毎年七月二三日に奉納されている神事である。県の無形民俗文化財に指定されている。
 竹田神社は、室町時代の文明一七(1485)年に保泉寺として創建された寺が、明治六(1873)年、神社として再建されたもので、祭神は島津忠良。
 踊りは、戦国時代の薩摩領主・島津忠良が、三州を平定した長男貴久を慰安するために始まったといわれている。
 はじめに奉納される二才踊りは陣羽織、帯刀姿の大人たちが歌いながら静かに歩を進め、勝ちどきを上げたり、四股を踏むしぐさで舞い、続く稚児踊りは、鎧武者に率いられた百衣陣羽織姿の少年たちが円陣を組み、ゆっくり回りながら締め太鼓などを奉納する。
 士踊りは、武士の士気を鼓舞する勇壮な郷土芸能である。
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