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2008/6/25


石田城 Ishida-jou 

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 石田城は長崎県五島市にあった、日本で最後に建てられた城である、いいかえれば、日本一新しい城でもある。
 幕末時代、鎖国政策をひいていた幕府に対して列強諸国は開国を迫ってきた。中でも、ロシア、イギリスは強引に開国を迫り、文化五(1808)年にはイギリスの軍艦が長崎港に強引に侵入する事件、フェートン号事件が勃発した。この出来事に危機感をいだいた幕府は嘉永二(1849)年、五島藩に海岸防備のために築城の許可を与えたのである。嘉永六(1853)年には浦賀にアメリカ合衆国の黒船が渡来、幕府に開国を迫り、翌年、日米和親条約が締結された。そのような中、五島藩は一五年の歳月を費やし、文久三(1863)年に石田城を完成させたのである。
 石田城の大きさは東西291メートル、周囲1346メートル、堅固な石垣を持ち、三方を海に囲まれた城であった。
 現在、石田城跡には、五島高校や歴史資料館、文化会館などが建てられ、五島家を祀る五島神社が建立されている。 
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2008/6/16


京都 八木邸 Kyouto Yagi-tei 

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 京都市壬生にある壬生寺にほど近い「八木邸(やぎてい)」は、八木源之丞の屋敷で、新選組の最初の屯所が置かれた場所である。幕末の京都の治安を守った新撰組が、まだ「壬生浪士組」と呼ばれていた頃、隊士が三年ほど宿舎として利用していた。
 八木家は江戸時代、壬生郷士(みぶごうし)と呼ばれた武士の家である。城下に住む武士に対し、郷に住む武士のことを郷士といい、村きっての旧家として、壬生村の運営に携わってきた。
 通りに面した長屋門は、文化元(1804)年に造営され、また母屋は、文化六(1809)年に造営された。新撰組発足の場所として知られるこの建物は、当時の日本家屋の特徴が随所に残され、天井も鴨居も低い造りとなっている。近藤勇の像が飾られた座敷では、新撰組に関する話を聞くことができる。また、鴨居に残る刀傷は、文久三(1863)年九月一八日夜、芹沢鴨・平山五郎らが斬殺された時のものと言われ、歴史の傷跡を今に見ることができる。芹沢鴨らが暗殺されたのは新撰組発足から僅か半年のことであった。
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2008/3/4


作並こけし Sakunami-kokeshi Sakunami Kokeshi

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 秋保温泉と並び、宮城県仙台の奥座敷と呼ばれる作並温泉。
 作並こけしは、この作並温泉を発祥とする伝統工芸品である。
 子供が握って遊べるように、他のこけしよりも細い胴を持つのが特徴で、肩から下部にかけて徐々に細くなる、円錐に近い形が一般的である。
 その歴史は比較的新しく、幕末から明治の初め頃と考えられており、また都市部で発達したという点も、他のこけしとは一線を画すものである。
 素材には東北地方に自生しているイタヤやミズキ、アオカが使用され、木肌が白く、きめ細かくて割れにくいという特徴を巧く利用している。
 肩と裾の部分にはロクロ線が引かれ、その間には菊を図案化した独特の模様が描かれた意匠となっており、同じく宮城県の遠刈田こけしの影響を強く受けたと考えられている。
 その表情は可憐でやさしくて派手さも無く、木の暖かいぬくもりが伝わる、最も素朴なこけしとして今も親しまれている
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2008/2/8


壬生寺 Mibu-dera 

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 京都府京都市中京区にある寺。
 奈良時代の創建と伝えられ、正暦二(991)年、大津にある三井寺(園城寺)の僧・快賢が再興して「小三井寺」と呼ばれた古刹である。中世には円覚上人が寺を再興し壬生狂言(壬生大念仏狂言)を興した。壬生寺は京都三大狂言の一つである壬生狂言を伝える寺として、今も京の庶民に親しまれている。また幕末には、新撰組がこの寺を「兵法鍛錬場」として使用したことから、新撰組のゆかりの寺としても有名である。境内の壬生塚には、近藤勇の銅像や隊士の供養搭などが残っている。
 壬生狂言が演じられる「大念佛堂」、秘仏である辧財天が祀られている「弁天堂」をはじめ、五仏錫杖頭(ごぶつしゃくじょうとう)(重要文化財)や列仙図屏風(れっせんずびょうぶ)(長谷川等伯筆・重要文化財)などや、室町時代の作を含む190点もの狂言の面を今に伝えている。
 今も、壬生の地の人々の中にある寺である。
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2007/10/24


三原城 Mihara-jyou Mihara Castle Ruins

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 三原城は、現在の広島県三原市にあった城である。国指定史跡となっている。
 三原城は、天正8(1580)年、小早川隆景によって沼田川河口付近にあった中州に建てられた城である。
 その姿が、まるで海に浮いているように見えたため「浮城」或いは「海城」と呼ばれたという。
 東は湧原川から西は現在の臥龍橋付近まで約900メートル、南北に約700メートルの広さがあった。
 隆景の死後、関ヶ原の合戦を経て紀伊和歌山藩筆頭家老の浅野忠吉が入城し、広島藩の支城として幕末まで使用された。
 明治4(1871)年、廃藩置県により廃城となる。
 現在は、石垣とお堀が残り、周辺は公園として整備されている。
 三原城は、秀吉や家康も宿泊したという要害であり、素晴らしい景観を誇った城である。
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2007/10/18


土浦城 Tsuchiura-jyou 

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 土浦城は茨城県土浦市中央に位置した城である。
 桜川の支流を引き込み、水掘を周囲に囲ませた平城で、水に浮かぶ亀に見立て「亀城」の異名を持った。
 永享年間(1429〜41)に今泉三郎が築城した。戦国時代には小田守治が城主となるが、佐竹氏に攻められ降伏。江戸時代に入り転封が続くが、貞享四(1687)年に土屋政直が移封した後は幕末まで続いた。
 廃藩置県後廃城となり、明治一七(1884)年の火災で建物の多くが焼失した。
 現存するのは城門と櫓門で、本丸内櫓門は関東地方唯一のもの。周辺には土塁や堀が残り、往時の繁栄をうかがわせる。
 東櫓は近年復元されたもので、土浦市立博物館の一部として使われ、鯱瓦などの遺構を保存している。
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2007/10/11


天嶬の鼻 Tengi-no-hana 

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 天嶬の鼻(てんぎのはな)は足摺宇和海国立公園に属する。
 愛媛県南宇和郡愛南町久良、西海半島の中央部から南に伸びている半島の突端にある岬である。
 岬の荒々しい断崖の下には奇岩怪岩が多く、また磯釣りの地としても有名である。海の底に広がるサンゴ礁が見せるエメラルドグリーンは美しく、一帯は南予十景の第一位に選ばれたほどの景勝地である。
 岬の先端には、白亜の灯台が海を行く船の安全を見守るべく立ち、展望台から見る太平洋の素晴らしさは言葉に表すことの出来ないほどである。
 近くには、幕末に活躍した高野長英の設計による天嶬鼻砲台跡(てんぎばなほうだいあと)を見ることが出来る。
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2007/10/9


絹の道 Kinu-no-michi Silk Road

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 絹の道(きぬのみち)は、東京都八王子市~神奈川県横浜市を結ぶ道の事である。現在の国道16号とほぼ同様の経路を辿る。
 八王子は古くから桑都(そうと)と呼ばれ、生糸絹織物の生産が盛んだった。安政六(1859)年、横浜の開港と共に生糸の需要が高まり、八王子は信州・甲斐方面からの生糸商人たちの拠点となった。
 生糸貿易で頻繁に使われた道は鑓水(やりみず)街道または浜街道と呼ばれ、日本のシルクロードにあたるということから、のちに「絹の道」として知られるようになった。
 この生糸を運んだ交通路は、歴史的な意義が認められ、そのうちの一部が自然を残して整備されている。また、鑓水商人屋敷跡には「絹の道資料館」が開館している。
 絹の道は、幕末・明治の人々・特に鑓水商人たちの足跡を残す、貴重な史跡である。
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