NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/5


播州三木打刃物 Bansyuumiki-uchihamono 

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 播州三木打(ばんしゅうみきうち)刃物は、兵庫県三木市で生産される金工品で、主な製品に鋸(のこぎり)、のみ、鉋(かんな)、小刀などがある。平成八(1996)年四月、通商産業大臣(現経済産業大臣)から伝統的工芸品の指定を受けた。
 播磨地方は播磨国風土記にも記述が見られるように、製鉄・鍛冶の神である天目一箇命(あめのまひとつのかみ)ゆかりの地で、古代より大和鍛冶が盛んだった。さらに五世紀頃、百済より韓鍛冶の技術が渡来して三木鍛冶の礎となった。一六世紀末、羽柴秀吉の三木城攻めによって町が破壊されると、その復興のため各地から大工が集まり、大工道具の需要が一気に増えたことによって、播州三木打刃物は発展を遂げた。
 材料には鉄や炭素こうを用い、主な技法として、つち打ち、焼き入れ、ひずみ取りがある。現在は十数名の伝統工芸士が、この手作りの技を守り伝えている。
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2008/7/9


刀工 Toukou 

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 刀工(とうこう)とは、日本刀を作ることを職とする者の事で、通常、日本刀の刀身を鍛える職人・刀鍛冶を指す。また、刀匠とも言われる。
 日本は職人の地位が高く、古くから大切にされてきたが、中でも日本刀はまつわる話も多く、名刀工、名匠とされる人々も多くいる。
 日本刀は、使用されたそれぞれの時代の戦闘様式や風潮、流行などにより、その形態を大きく変化させてきた、高い機能性と美術性を兼ね備えた武器である。
 江戸時代初期の頃までは多くの戦に用いられ、武士の魂とも言われたが、平和な江戸中期には一時衰えた。その後、復古刀が全盛となり、幕末には多くの刀が使用されたが、明治維新以後は銃器に取って代わられた。
 現代では、武器と言うよりも美術工芸品として、愛好家の間で売買されている。
 刀工は、崇高な品格と芸術性を持つ日本刀の刀身を作る、世界に誇る職人である。
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2008/6/13


長曽祢虎徹 Nagasone-kotetsu 

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 長曽祢虎徹(ながそねこてつ)は、江戸時代初期の慶長元(1596)年に生まれ、延宝六(1678)に死去したとされる刀匠である。生没年は推定で、詳細な生年・没年は分かっていない。
 石田三成で有名な佐和山城下に生まれ、関ヶ原の合戦の敗北で幼少期に金沢に逃げた。長じて、金沢では甲冑の名工として知られた。
 明暦二(1656)年頃、江戸に出て刀鍛冶に転じる。三之丞興里(おきさと)と名乗ったが、後に入道してからは古鉄入道と言い、更に後には虎徹の文字をあてた。
 作風は、地鉄が強く、地刃の匂口が明るく冴えるのが特徴で、その多くに焼出しがあり、前期は瓢箪刃と称される大小の互の目が連れた刃を、後期は数珠刃と呼ばれる独特の互の目乱れを焼いている。
 幕末、新撰組局長・近藤勇が使用したとされる事で知られる。近藤の虎徹は、商人・鴻池善右衛門に貰ったとも江戸で買ったともいわれ、諸説あって判然としない。
 長曽祢虎徹は、江戸時代以降の東の横綱ともされる名刀工である。
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2008/4/3


小烏丸 Kogarasumaru 

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 小烏丸(こがらすまる)とは、天皇家の宝刀である。
 ある日、桓武天皇の元に伊勢神宮からの使いであると、一羽の大きな烏(からす)が舞い降り大刀を授けられた、との伝説からこの名が付けられたと言われる。
 この刀を打ったのは天宝時代の大和の刀鍛冶、天国(あまくに)であるとされている。
 平安時代末期、平貞盛が平将門・藤原純友らの起こした反乱、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)を鎮圧する際に、天皇よりこの刀を拝領、以後、平家一門の家宝となっていたが、壇ノ浦の戦いで一度行方不明となる。しかし、江戸時代に入り小烏丸の所在がわかり、現在では皇室御物として保管されている。
 刀剣としての特徴は、刀身の先端から半分以上が両刃となり、斬ることよりも突くことに適した刀で、鋒両刃造(きっさきもろはづくり)または小烏造と呼ばれている。ミステリーの多い、神秘的な刀である。
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2008/2/19


御上神社 Mikami-jinja Mikami Shrine

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 三上山は滋賀県にある標高432メートルの美しい三角錐の姿で、近江富士の名で親しまれている。
 その山麓には、鍛冶、刀工の神である天之御影神(あめのみかげのかみ)が宿るとされ、近江の人々の生活を守護する地神となっている。
 御神神社(みかみじんじゃ)はこの天之御影神と三上山を御神体として祀っている。
 本殿は鎌倉時代に建立されている。方三間屋根入母屋造、白壁、連子窓などの仏堂的要素や、居所空間の要素など、神社・仏閣・殿舎の三様式が混合された「御上造」と呼ばれる大変珍しい建物である。
 入母屋造の神社建築のうちでは古い遺構の一つであり、昭和二七(1952)年に国宝に指定され、拝殿・楼門・摂社若宮本殿・木造狛犬も明治三二(1899)年に国指定の重要文化財となっている。
 毎年一〇月中旬には「ずいきまつり」が開催される。宮座と呼ばれる五つの組が里芋の茎で神輿を作り、柿・栗・野菜など秋の収穫物で飾り、五穀豊穣を祝って神社に奉納する。
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2007/11/22


寺井直次(人間国宝) Terai Naoji 

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 寺井直次(てらいなおじ)は、大正元(1912)年一二月一日、石川県金沢市生まれの蒔絵(まきえ)工芸士である。
 鍛冶職の家に生まれ、漆芸に興味を抱いて石川県立工業学校、次いで東京美術学校に進学し、蒔絵の道に進んだ。
 卒業後、理化学研究所でアルミニウムを用いた金胎(きんたい)漆器を研究する。
 昭和二九(1954)年、金沢で作家活動を始めた。
 卵殻の並べ方でぼかし、量感や遠近感などの複雑な表現を可能にした他、付着させる漆に工夫を凝らした。また、アルミニウムを電解処理し、素地を作る金胎漆器の新方式も開拓した。
 昭和五八(1983)年、勲四等瑞宝章を授章し、二年後に重要無形文化財「蒔絵」保持者に認定され、人間国宝となった。
 平成一〇(1998)年、惜しまれつつも八六歳の生涯を終えた。
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2007/10/31


土佐打刃物 Tosa-uchihamono 

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 土佐打刃物(とさうちはもの)とは、高知県の香美市(かみし)に古くから伝わる工芸品である。
 鎌倉時代後期の徳治元(1306)年、大和国より移り住んだ刀鍛冶の五郎左衛門吉光派が土佐打刃物をつくったのが始まりで、室町末期まで繁栄した。戦国の乱世では需要に応じ、武具や刀剣をつくっていた。
 天正一八(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めに参戦し、土佐一国を統一した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、佐渡から刀鍛冶を連れて帰り、これが刃物の産地としての始まりとなった。「長宗我部地検帳」には、三九九軒の鍛冶屋が存在していたことが記録されている。
 本格的な生産が始まったのは元和七(1621)年で、土佐藩の財政復興として新田開発などの振興政策を受け、農林業用打刃物の需要が一気に拡大した。
 土佐打刃物は刀鍛冶から習得した技術で鎌や鉈、のこぎりなど農山林具を中心に発達した。切れ味がよく耐久性があり、研ぎやすいことで知られ、全国有数の刃物産地として高い評価を得ている。
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2007/5/21


鑿(のみ) Nomi Chisels

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 鑿の用途としては、素材に対して穴を穿ったり、溝を刻んだりと主に構造加工の際に使われるものである。
 その歴史は古く、原型といわれるものでは石器時代にまでさかのぼることになる。ほぼ現在と変わらない鑿が用いられ始めたのは飛鳥時代頃だと推定されている。
 その種類や用途は多種多様に及び、鑿を専門に打つ鍛冶職人でさえ、名称だけではその形状や、どういった用途に使われるのかさえ分からないものもあるという。
 もちろん、大工仕事には欠かせない道具の一つである。
 今も日本全国に残る様々な名所、旧跡の建立に一役買ってきた。
 日本各地に点在する古来からの建造物に悠久のかなたへの思いをはせる時、そこには必ず、このさほど大きくはない道具が存在し、そしてそれを使って作業に勤しんでいた職人たちがいたのである。
 そう考えると、少しだけ、壮大な日本の歴史が身近なものに思えてくる。
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