NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/25


香川 田村神社 Kagawa Tamura-jinja 

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 田村神社(たむらじんじゃは)香川県高松市にある神社である。
 創建は和銅二(709)年古くから讃岐の国で一番格の高い一宮として人々の崇敬を集めてきた。また、江戸時代初期、延宝七(1679)年には神仏習合を廃止、神道のみを重視し、国守松平家の祈願所としたことから幕府や武家からも大きな崇敬を集めていたといわれている。
 神社は琴平電鉄一宮駅そばに鎮座し、大鳥居をくぐりきれいに舗装された参道を行くと見事な拝殿が建つ。その裏には本殿がありその後ろの奥殿付近に定水と呼ばれる深淵がある。香川県は灌漑用のため池が多く水に関する信仰も強く、この淵にも蛇や竜に関する伝承も残されている。
 田村神社はさぬき七福神のひとり金箔が貼り付けられた布袋様の像が置かれており、参拝に訪れる人々を暖かく見守っている。
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2008/7/9


津観音寺 Tsukannon-ji 

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 津観音寺(つかんのんじ)は、三重県津市にある真言宗の古刹である。
 正式には「恵日山観音寺」と称し、地元の人々からは「津の観音さん」として親しまれている。
 和銅二(709)年の開山で、御本尊は阿漕浦の漁夫の網によって出現されたという、聖観世音菩薩で秘仏となっている。
 浅草と大須に並び、日本三観音の一つに数えられており、全国の人々から海上安全や五穀豊穣、所願成就の観音様として深く信仰を集めている。
 時々の権力者達からの庇護も篤く、室町時代には将軍足利義教が勅命を奉じて三重塔を建立し、江戸時代には歴代将軍家や津藩主藤堂家の祈願所として特別の加護を受けていた。
 太平洋戦争時は空襲で伽藍の多くが焼失するも戦後に復興、幸いにも難を逃れた「弘法大師画像」や「豊臣秀吉朱印状」、「千利休書状」など数多くの文化財を有する名刹としても知られる。
 平成一三(2001)年には県内唯一の五重塔が完成し、その隆盛を今も放ち続けている。
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2008/6/4


妙高山 Myoukou-zan 

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 妙高山(みょうこうざん)は標高2454メートルで、日本百名山のひとつに数えられ、美しい円錐形であることから、別名「越後富士」とも呼ばれている。
 和銅年間(708~715)に開山され、中世には修験者の行場として栄え、信仰登山が行われた。山そのものも、かつては旧妙高村の関山神社の社領だった。
 池の平、赤倉、燕の各登山口は古くからの湯量豊富な温泉地で、緩やかな斜面には多くのゲレンデが開かれている。山頂は北峰と南峰の二つのピークがあり、どちらも眺望は360度見渡せ、佐渡島や浅間山、南北アルプス、戸隠山、黒姫山など広い眺望を楽しむことができる。
 妙高山を中心として、神奈山、大倉山などの外輪山が∪字型に取り巻いている。南麓にある笹ヶ峰牧場は、妙高西側稜線上にある火打山や焼山登山の基地でもあり、秋になると紅葉につつまれ、美しい景観を見せる。
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2008/5/9


興福寺 北円堂 Koufuku-ji Hokuendou 

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 興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある法相宗大本山の寺院である。本尊は釈迦如来で、西国33箇所第9番、南都七大寺第2番、西国薬師霊場第4番札所とされている。
 天智天皇八(669)年、藤原鎌足夫人により創建、和銅三(710)年に藤原不比等によって現在地に移転、興福寺と改称された。
 北円堂(ほくえんどう)は、養老五(721)年、藤原不比等の一周忌として不比等の霊を慰めるため、元明上皇と元正天皇が長屋王に命じて建てさせた。
 現在の建物は承元二(1208)年頃に再建されたもので、興福寺に現存している建物の中では最も古い建物となる。
 堂内には、いずれも国宝である運慶一門が制作した鎌倉時代の本尊・弥勒如来像や、無著(むちゃく)・世親(せしん)菩薩像などを安置している。
 興福寺の北円堂は、華麗で力強く、優美な八角堂である。
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興福寺 東金堂 Koufuku-ji Toukondou 

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 興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある法相宗大本山の寺院である。本尊は釈迦如来で、西国33箇所第9番、南都七大寺第2番、西国薬師霊場第4番札所とされている。
 天智天皇八(669)年、藤原鎌足夫人により創建、和銅三(710)年に藤原不比等によって現在地に移転、興福寺と改称された。
 東金堂(とうこんどう)は、神亀三(726)年、聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を祈願し、創建された。
 現在の建物は、焼失後の応永二二(1415)年に再建されたものであり、国宝に指定されている。
 堂内の本尊・薬師如来像、脇侍の日光・月光の両菩薩像は共に国の重要文化財に指定されており、文殊菩薩像、維摩居士像、十二神将像、四天王像はいずれも国宝に指定されている。
 興福寺の東金堂は、多くの宝物が収蔵されている建築物である。
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2008/3/6


興福寺 大湯屋 Koufuku-ji Ooyuya Kofuku-ji Temple, Ooyu-ya Bathhouse

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 興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある法相宗大本山の寺院である、藤原氏の氏寺である。本尊は釈迦如来で、西国33箇所第9番、西国薬師霊場第4番札所とされている。
 天智天皇八(669)年、藤原鎌足夫人により現在の京都市山科区に山階寺(やましなでら)という名称で創建され、和銅三(710)年、藤原不比等によって現在地に移転、興福寺と改称された。
 大湯屋(おおゆや)は、五重塔の東方に建っている中世の風呂で、創建年代は不明であるが、現在のものは応永三三(1426)年頃の再建とされ、国の重要文化財に指定されている。
 南北四間・東西四間の本瓦葺で、西側は入母屋造、東側は切妻造となっており、中には口径136cmの大きな鉄の湯釜が2基存在し、沸かしたお湯から立ちのぼる蒸気にあたる蒸し風呂となっている。
 中世以後は、大衆蜂起の衆議所としても使われた。
 興福寺の大湯屋は、中世の浴室建築として大変貴重な建物である。
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2007/12/14


泰平寺 Taihei-ji 

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 鹿児島県薩摩川内市にある泰平寺(たいへいじ)は和銅元(708)年、元明天皇の勅願寺として天下泰平を祈願して創建された。当初から七堂と堀を備える大伽藍であった。
 戦国期には豊臣秀吉の九州平定時の本陣となり、秀吉と島津氏の和睦会の場となる。その際住持である宥印法印(ゆういんほういん)が和睦の斡旋に尽力したという。現在も宥印法印の墓石の横に記念の和睦石が残っている。 
 泰平寺を舞台とした民話「塩大黒」も残っている。この地方で塩が手に入らなかった頃、お坊さんが大黒天像に愚痴をこぼすと、大黒天像が本堂から消え甑島(こしきじま)から塩をどっさり持ってきたという話だ。
 寺は明治の廃仏毀釈にて取り壊され、大正時代に再建された。創建当初からの秘仏、薬師寺如来は行方不明となるが、大黒天像は難を逃れる事ができた。大黒天像は黒く煤けた木製の立像で、愛嬌のある柔和な笑みを浮かべている。
 平成二〇(2008)年は創建一三〇〇年にあたり、記念大法要が執行される。
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2007/9/18


枚聞神社 Hirakiki-jinja 

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 枚聞神社(ひらききじんじゃ)は、鹿児島県指宿市開聞十町にある神社である。祭神は、大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)他八柱。
 創建は定かでないが、社伝では和銅元(708)年とも伝えられている。
 朱塗りの社殿は慶長一五(1601)年、島津義弘が再興し、天明七(1787)年に島津重豪(しまづしげひで)が改修したもので、後ろにそびえる開聞岳の緑に社殿の朱が良く映える、美しい景観を誇る。
 薩摩国の一宮であるが、新田神社も「薩摩国一宮」を名乗っており、鎌倉時代から互いに一宮を巡り争ってきた。
 外洋に面した立地から、古くから「航海神」としても崇められ、江戸時代以降は琉球からの使節の崇敬も集めるようになった。
 枚聞神社は、神代より続く長い歴史をもつ古社である。
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