NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/17


船橋 灯明台 Funabashi Toumyoudai 

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 灯明台(とうみょうだい)は、千葉県船橋市宮本にある意富比神社(おおひじんじゃ)境内に残る灯台である。
 当時は、灯明台周辺が東京湾沿岸であったため、往来する船舶に位置を知らせるための常夜灯があったが、慶応四(1868)年の戊辰戦争の際、戦災によって社殿とともに焼失。その後の明治一三(1880)年に、地元有志らの寄付によって同社境内にある標高27mほどの小高い丘に本格的な灯台として建てられた。
 肝心の光源には、石油ランプに錫製の反射鏡を組合わせた構造が用いられ、その光は11km先まで届く程だったという。
 木造瓦葺きの三階建てで、一階と二階が和風、三階は西洋式灯台の和洋折衷の造りとなっており、明治二八(1895)年に廃止されるまで、政府公認の私設灯台として活躍した。
 今はもう、灯台としての機能は果たしていないが、その歴史的価値から県の有形文化財にも指定され、建設から一二〇年以上を経た現在にあっても、文明開化の趣を垣間見せてくれている。
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2008/7/28


無鄰菴 Murinan 

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 京都市左京区の一角にあり、風光明媚な庭を持つ別荘。それが無鄰菴(むりんあん)である。
 明治、大正期の元老であり、内閣総理大臣も勤めた山縣有朋(やまがたありとも)が所有していた。
 有朋自らが、海外の庭園なども参考にして設計、監督し、当時の造園家の手により作庭された和洋折衷の庭が有名である。
 明治二九(1896)年に完成した庭は、京都東山を借景として池や芝生を配した池泉遊式になっており、琵琶湖疏流が引き入れられて、流れる水音がどこからでも聞こえるようになっている。
 醍醐寺三宝院の滝を模した三段の滝もあり、ツツジやカキツバタの色付きなど、四季折々の風情を楽しむことができる。
 それまでの山水画のような作庭とは違い、どこか牧歌的な雰囲気を併せ持った庭でもある。
 この庭を眺めながら、明治三六(1903)年、有朋と伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の四者によっていわゆる「無鄰菴会議」が開かれ、日本の一時代を築いた場所としても知られている。
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2008/4/11


藍半天ジャケット Ai-Hanten-jaketto 

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 日本人の装いが和服から洋服へと変わった今、羽織る機会も多いジャケット。上半身を飾るものだけにそれなりに気を使うものでもある。
 そこに例えば、和の雰囲気を漂わせてみてはどうだろうか。
 この「藍半天ジャケット」は、スタイルそのものはシンプルなジャケットでありながら、落ち着いた和の装いも同時に楽しめる一品で、製作者自身が自分の足で着物市や骨董市を探し歩いて見つけた藍の半天を元に、一枚仕立てで仕上げたものである。
 鮮やかな藍染めの風合いはそのままに現代的で着やすいジャケットに生まれ変わっており、洋服にはあまり見られない微妙でいて繊細な深い青は、一種、独特の雰囲気を漂わせている。
 また、おそらくは背中に入っていたのであろう桐の紋もその綺麗な白とあいまって全体を引き立たせており、それを腰の辺りに、半分だけ持ってくるといった心憎い演出もなされている。
 まさに和洋折衷を着て歩く、といった雰囲気だろうか。
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2008/1/8


旧登米高等尋常小学校校舎 Kyuu-toyoma-koutou-jinjou-shougakkou-kousha The School Building of Old Toyoma Higher Elementary School

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 旧登米高等尋常小学校校舎(旧とよまこうとうじんじょうしょうがっこうこうしゃ)は、明治二一(1888)年十月に竣工した、和洋折衷の擬洋風建築である。
 中庭を囲むコの字型の構成で、建物に沿って明治建築の特色である回廊がある。正面中央には吹き抜け式の玄関と印象的な白いバルコニーがあり、そこからは校舎全体を見渡す事が出来る。玄関の四隅の柱の最上部は、ギリシャの神殿をモチーフとした柱頭飾りになっている。
 三年間ヨーロッパで建築を学んだ技術者山添 喜三郎(やまぞえきさぶろう)が手がけており、一〇〇以上経ても歪みが生じていない。
 国指定重要文化財建造物に指定されている。
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2007/12/25


常燈明台 Joutou-myoudai 

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 靖国通り九段坂上にある「常燈明台(じょうとうみょうだい)」は、東京湾の漁船の目印のために建てられたものだという。今からではとても考えられないが、当時はここから東京湾が見られるほど見晴らしの良い高台であったといえよう。遠く房総からもその明かりを見ることができたともいわれる。
 明治四(1871)年、当初は靖国神社に合祀されている霊を慰めるために、靖国神社に建立された。その後道路改修のために現在地に移されたという。
 台座は日本様式の石造りになっており、上部は八角円筒の西洋式で、頂上には金色の風見鶏がつけられている。和洋折衷の建築様式が流行した、明治初期の雰囲気が今も漂う。
 一〇〇年以上もの間、街の移り変わりを見下ろしてきた燈台である。
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2007/12/14


康楽館 Kouraku-kan 

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 康楽館(こうらくかん)は、明治四十三(1910)年、銅や亜鉛、鉛の鉱山として栄えた小坂鉱山の厚生施設として作られた、木造の芝居小屋である。秋田県鹿角郡小坂町に位置する。
 歌舞伎、新劇、映画等の公開、上演が行われてきたが施設の老朽化やテレビの普及などで衰退、昭和四十五(1970)年には使用を停止されたが、昭和六十(1985)年に市民の手により再興され、現存する日本最古の芝居小屋として、いまも公演が行われている。
 和洋折衷の造りであるが、舞台には花道、切穴、回り舞台などが揃っており、全て人力で稼動する。
 国重要文化財、秋田県指定有形文化財に指定され、明治の息吹を感じながら公演を見ることができる建物である。
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2007/7/10


華月館 Kagetsu-kan Kagetsukan Guesthouse

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 華月館(かげつかん)は、北海道滝川市内にある市指定文化財で、その成り立ちは大正初期に遡る。
 元々は明治三十(1897)年に建てられた旧御料局舎で、それを大正初期に三浦屋という旅館が払い下げを受け、奥座敷として利用する事となった。
 その後、増改築を受けて和洋折衷の趣のある建物として生まれ変わり、要人宿泊時などの貴賓室として利用されることとなる。
 それからは、長らく各界著名人なども宿泊する有名旅館としての役割を果たし、昭和五五(1980)年、開基90周年を記念した更なる増改築が施された上で、建物は滝川市に寄贈される。
 市は歴史あるこの建物の名称を「華月館」と改め、指定文化財として保存していくこととなった。
 明治から大正期の民間高級住宅の趣を色濃く残し、和洋折衷による重厚さと格調の高さがここが貴賓館だったことを今に伝えている。また館内には宿泊した著名人たちのゆかりの品も展示されている。
 ロマン漂う室内で過ごせば、ちょっとした文豪の気分を味わえるだろう。
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2007/6/20


盛美館 Seibi-kan 

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 盛美館(せいびかん)は、青森県平川市猿賀の名庭園・盛美園内にある洋館である。
 明治四〇(1907)年、建築家西谷市助によって建てられた。
 庭園を眺めるために建てた和洋折衷様式の建物であり、和洋と洋風、判然と異なった様式が上下に重なる建物は珍しく、他に例がないといわれている。
 一階は純和風の数奇屋造りで、贅を凝らした書院からの眺める景観が素晴らしく、二階はルネッサンス調を漂わせ、漆喰の白壁に、展望室のドーム屋根、尖塔、棟飾りなどが見事である。
 鹿鳴館時代の特徴を表した珍しい建物で、庭園と融合した独特の美しさをもち、明治文化の面影を残している。
 盛美館は、緑色の屋根と白壁の色彩が庭園に溶け込む、盛美園のシンボルと言える建物である。
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