NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/3/11


金沢 懐華楼 Kanazawa Kaika-rou 

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 金沢の懐華楼(かいかろう)は、石川県金沢市東山にある建築物である。市の保存建造物に指定されている。
 文政三(1820)年、加賀藩前田公による街割りで、金沢市浅の川界隈に隣接する東廊、東茶屋街を設置した。
 懐華楼は、その時に創建された建物で、現在は揚屋・茶屋文化をそのままに、平成の文化を取り入れて修復開楼している。
 ひがし茶屋街は金沢最大規模の町家群であり、観光客が絶えない。そのメインストリートに沿って懐華楼は建っている。
 昭和初期まで茶屋「越濱」として使われ、売りに出ていた建物を、金沢で飲食店を展開するグループが買収、改修し、平成五(1993)年、懐華楼としてオープンさせた。
 金沢の懐華楼は、独特の華やかな文化を味わえる場所である。
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2008/2/22


賤機焼 Shizuhata-yaki 

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 賤機焼(しずはたやき)は、静岡県静岡市の民窯で焼かれる陶器。江戸時代初期に太田七郎右衛門によって創始され、徳川家康より徳川家の御用窯として朱印地と賤機焼の称号をもらい、数百年にわたって繁栄した。しかし、文政一一(1828)年に安倍川の洪水によって窯場が流失。以後は衰退の一途をたどった。
 明治に入り、太田萬二郎によって再興が試みられるも往年の勢いは戻らず、県が郷土産業として青島庄助を招き再興に乗り出すと、二代目五郎が常滑の技術を、三代目秋果が南蛮手という技術を採り入れるなど尽力し、地方色豊かな焼き物として生まれ変わった。現在は四代目が継承している。
 なお、わずかに現存する江戸時代の賤機焼には「鬼福」と呼ばれる意匠が残されている。これは、徳川家康が三方原合戦で武田軍を駆逐した際に「鬼は外、福は内」と叫びを上げながら戦い勝利したという逸話にちなんでいる。
 静岡という穏やかな風土に育まれ、長い時を経て独特な味わいを備えてきた賤機焼は、使う人の手に馴染みやすく、温かく、優しい。
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2008/1/17


大津絵 Ootsu-e 

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 大津絵(おおつえ)は、滋賀県大津地方の代表的な郷土みやげ品で、伝統民画と呼ばれる。その大半は、強烈な人間風刺がテーマになっている。
 江戸時代初期、東海道近江国追分あたりの名もなき画工が軒を並べ、街道を往来する旅人らに、信仰の対象として仏画を描き売ったのが始まりという。時代の変遷と共に世俗画、風刺画、人物画、風俗画へと転じ、また教訓的な和歌を添えたものも登場するなど、そのモチーフは百種類以上にのぼる。
 江戸時代を通じて東海道大津宿の名物となった大津絵は、文化・文政期(1804~1829)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、そこから「大津絵節」が生まれ、全国へと伝播していった。
 シンプルでのびのびとした描線、どこかユーモラスで風刺のきいた絵柄、そして独特の鮮やかな彩色が見る者を惹き付ける。現在は、紙に描かれたもののほか、絵馬やひょうたん、皿や掛け軸などもある。人間風刺という普遍的なテーマゆえに、いつの時代も民衆の心を捉えて離さない。
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2007/12/28


棚沢獅子舞 Tanazawa-shishi-mai 

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 獅子舞は奥多摩地方に古くから多くの地域に伝承されている伝統芸能である。棚沢獅子舞(たなざわししまい)は毎年八月、熊野神社の祭礼に奉納されるものである。
 時期は定かでないが、文政年間(1819~1829)に、奥氷川神社の獅子舞から伝わったものが始まりといわれている。
 祭礼当日は早朝より、村内の拝所巡りが行われる。まず熊野神社で社殿を七周する「宮詣り」が奉納された後、山の神、愛宕神社、獅子宿、将門神社、不動堂、正法院などの舞を各地で披露し、熊野神社に戻ってくるという。
 構成は三匹獅子に花笠四名、囃子方三名、笛方、唄方各数人名ずつとなっている。唐草模様の衣装を身につけた獅子舞達の、躍動感のある舞は、勇壮で美しいものである。
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2007/12/26


華道 Kadou 

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 四季折々の草花や樹木などを花器に生けてその姿の美しさや「いのち」の尊さを表現し観賞する「華道(かどう)」は、いけばなに「道」としての側面を加えたもので、礼儀作法を大切にする日本の伝統的な芸術である。
 仏教が日本に伝来し、発展に伴って仏前に花を手向ける様になった事がいけばなとしての始まりで、草木や花を人間と同じ「いのち」のあるものとして見つめ、その美しさを花瓶の上で表現したものが華道とされる。江戸時代後期の文化・文政(1804〜1829年)に生花や挿花が流行し、池坊(いけのぼう)を中心に数多くの流派が全国に広がっていった。
 芸術としての華道は師から弟子へ伝承され、花を生ける技術だけではなく、人間的な面や生き方といった思想的なものにまで及んで受け継がれる。
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2007/12/20


墨田区 牛島神社 Sumidaku Ushijimajinja 

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 墨田区の牛島神社(うしじまじんじゃ)は、東京都墨田区向島にある神社である。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、天之穂日命(あめのほひのみこと)、貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)。
 貞観二(860)年、慈覚大師が神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請して創祀された。その後、天之穂日命を祀り、ついで貞辰親王がこの地でなくなられた事からその神霊を併せて祀り、「王子権現」と称したという。
 治承四(1180)年には、神社祈願後に豪雨による洪水の中、無事大軍を渡らせた源頼朝が、神の加護に感謝して社殿を経営し、多くの神領を寄進した。
 総桧権現造りの東都屈指の大社殿を持ち、狛犬と並んで左右一対の神牛が奉納されている。
 また、文政八(1825)年ごろに奉納されたと言われる撫で牛があり、江戸時代から庶民に親しまれている。
 墨田区の牛島神社は、古来より今も人々に崇敬されている古社である。
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2007/12/11


青梅 常福院 Oume Jyoufuku-in 

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 青梅にある常福院(じょうふくいん)は、標高七五九メートルの高水山(たかみずさん)の頂上付近にある真言宗の寺で、安楽寺の末寺として知られる。高水山は岩茸石山(いわたけいしやま)、惣岳山(そうがくさん)と共に高水三山と呼ばれている。
 不動堂の正面に、大きな木製の剣が祀ってある。不動堂には本尊である浪切白不動(なみきりしらふどう)像があり、波を切る不動の姿からその名がついたといわれている。
 建仁三(1203)年、この不動を崇拝した畠山重忠が再建したが、その後山火事があり、文政五(1822)年に現在の不動堂が立てられた。 
 また境内にある鐘楼には、享保三(1718)年に鋳造された銅鐘がかけられている。
 毎年四月八日に近い日曜日に奉納される「高水山古式獅子舞」は、三匹獅子舞として知られる。明治四三(1910)年に市の無形民俗文化財の指定を受け、戦時中も途絶えることなく毎年奉納されていた。
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2007/12/6


佐波神社三番叟 Sawa-jinja Sanba-sou The Sanbaso Dance at Sawa Shrine

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 佐波神社三番叟(さわじんじゃさんばそう)は、静岡県西伊豆町の仁科に鎮座し、漁の神様を祀って崇神(すじん)天皇から造船の地を賜ったと伝えられる佐波神社において、毎年一一月二日と三日の二日間行われる秋の例祭で奉納される人形浄瑠璃である。
 二日の夜に「日の入り三番」、三日の朝に「日の出三番」が神社境内で奉納される。
 慶長年間(1596~1614)に伊豆金山奉行であり元は猿楽師であった大久保長安によって、周辺地区に人形浄瑠璃がもたらされたといわれ、同社での初演は文政八(1825)年に行われた社殿の大改修を祝って奉納されたものだとされている。
 千歳、翁、三番叟の三体の人形にそれぞれ三人の人形師が付き、太鼓や笛、謡などの奏者と合わせた、総勢二二人によって古式豊かに式三番叟が上演される。
 地元の若衆によって連綿と受け継がれる郷土芸能は、人形に命を吹き込み、見るものを幽玄の世界へと誘ってくれる。
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