NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/4


【徳(德)】 Toku, Tadasu Virtue

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 「徳」の字が表す元の意味は、後世の「徳」の倫理概念ではなく、原始的なアニミズムと呪術の世界へ戻らなければなりません。
 「行」という字は縦横の交差点を象っていますが、「徳」の部首となっている「彳」は、「行」の左半分、つまり分岐を意味します。人が多く通る場所であり霊的に大事なところです。自然にほかのところより事故が多発するので、悪霊をはらう対象にもなります。
 旁(つくり)の横向きの「目」の上部は「蔑」や「省」と同じように呪飾を表しています。「省」はある地域・国に対しての武威をあらわすものですが、「徳」の右上の部分と同じ由来をもち、呪力のある目で見回ることを表しています。特に「徳」の字は、「彳」の要素を持つことから、呪飾の目の威力で行われる巡察の対象が、交差点や分岐にある悪霊であり、それを祓いただすことを示します。
 一般的に旧字体のほうが古代の字体に近いのですが、この「徳」は、旧字体よりも一画少ない常用漢字の字体は金文に近い形です。
 さらに初めて「心」の形が加わったのは、殷から周への革命の直後、西周前期の青銅製の器である「大盂鼎」(盂はこの鼎を使った殷の人の名前)に刻まれた290字の長い銘文で、その時から「徳」の意味するところが、目の呪力より精神的・内面的な方向へ変わりました。
 
■右 徳・甲骨文(こうこつぶん)
■左 徳・金文(きんぶん)
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2008/3/31


かぶら杉 Kabura-sugi Kabura-sugi

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 隠岐島後(おきどうご)の中村地区に、昭和四三(1968)年六月七日、島根県の天然記念物に指定された杉の大木がある。「かぶら杉」と名付けられ、樹齢は推定六百年、高さ約四〇メートル、幹周は約一〇メートルもあり、根元から一・五メートルの部分で幹が六本に分岐しているのが特徴。昭和初期までは大小一二本の幹があったという。名前の由来は、鏑矢(かぶらや)に形が似ているからという説と、株立ちから付けられたという説がある。
 アクセスは容易だ。西郷港から国道485号を北上し、県道316号を銚子ダム方面へ右折する。ダムを過ぎ、トンネルを抜けた少し先の右手に見えてくる。遠くから、そして近くから眺め、あるいは見上げているうちに、かぶら杉は何かを語りかけてくるに違いない。
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2007/7/10


夫婦滝 Meoto-daki The Meoto-daki Waterfall

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 北海道芦別市付近を流れる幌内川の支流にかかるのが、夫婦滝(めおとだき)だ。
 層雲峡にも同じ名前の滝があるため、こちらは新城夫婦滝とも呼ばれている。
 なかなかに複雑な瀑容を成しており、おおよそ10mほどの高さの三段・分岐二条・一条という珍しい形をしている。
 その名前の由来は中段にある大きな岩による。この岩にぶつかった流れは一旦二手に分かれて美しい飛瀑を見せる。その後、落ちた先でまた一つとなり流れていく。この、一旦分かれてまた一つに戻る姿が、仲睦まじい夫婦の姿に例えられ、その名の由来になったのだといわれている。
 複雑な流れのために季節によってその姿を変える滝でもあり、融雪期には普段とは違う豪快な姿も見せてくれる。
 水量が少なくなる夏には滝も穏やかになり、ブナの新緑に囲まれたとても穏やかな夏の避暑地になる。
 まるで一組の夫婦の人生模様を見るような、そんな雰囲気を持った滝である。
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2007/6/21


御油宿 Goyu-juku Goyu-juku

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 御油宿(ごゆじゅく)とは東海道五十三次、三五番目の宿場。現在の愛知県豊川市御油町である。
 東海道が制定されたのは、慶長六(1601)年であったが、この年に伝馬朱印状が発行されており、早い時期から宿場として成立していたことが確認されている。
 この伝馬朱印状では御油・赤坂で一宿と制定されていたためか、本陣の数も多く最多時で4件、少なかった頃でも2件存在していた。
 姫街道(本坂街道の俗称)の分岐点にもなっており、隣の赤坂宿ともに遊興の場としても大いに賑わった。
 また、安藤広重の絵には飯盛女が宿泊客の争奪を行っているように描かれているが、東海道の制定後、独立した赤坂宿との距離が約1・7kmと非常に近かったため、互いにすさまじい客引きをしたと伝えられている。
 現在「御油の松並木」として街道の松並木が御油宿と赤坂宿の間に残っており、当時の面影を残している。
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2007/6/18


宮宿 Miya-juku Miya-juku

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 宮宿(みやじゅく)は、東海道五十三次の四一番目の宿場町。現在の愛知県名古屋市熱田区にあたる。
 東海道の中で唯一、この宮宿と桑名宿の間は船でも通行が可能となっていた。この海上の距離が七里(約27キロメートル)あったことから、七里の渡しと呼ばれていた。
 江戸時代に街道が整備されると、中山道の脇街道「美濃路」や東海道の「佐屋街道」は分岐点であることからも大変な人が集まったが、更に熱田神宮の門前町であったことから、往来する旅人のほか参拝客でも大いに賑わった宿場であった。そのことから、旅籠の数は東海道最大数の二四八軒、本陣も二軒設置されていた。
 当時、脇本陣格の旅籠であった丹羽家住宅が市の有形文化財として現在も残されている。
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2007/6/14


藤川宿 Fujikawa-syuku Fujikawa-shuku

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 藤川宿(ふじかわしゅく)は、東海道五十三次のうち第三十七之次である、徳川以前の鎌倉時代から続く古い宿場町であった。
 現在の東海道すなわち国道一号線は、名鉄名古屋本線を挟んで町の北側を通っており、旧道である藤川の町は思いのほか静かだ。国道一号から分岐する所には、宿場の入口を示す「棒鼻」が残っている。
 藤川は古い宿場町の保存に積極的で、現在資料館となっている脇本陣跡の門や秋葉山常夜灯、連子格子の町家など、当時を偲ばせる建造物も少なくない。藤川駅の南側に藤川小学校があり、その前に西の棒鼻がある。東の棒鼻からおおよそ1キロメートル程だ。
 そこから少し先に「塩の道」であった吉良街道(きらかいどう)の分岐があり、碑が建っている。左手に分かれるのが吉良街道で当時の松並木が残っており、また右手の東海道にも藤川の松並木があり、国道一号への合流まで続いている。
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2007/6/11


四日市宿 Yokkaichi-juku Yokkaichi-juku

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 四日市宿(よっかいちじゅく)は三重県四日市にある、東海道五十三次の四三番目の宿場である。
 江戸以前から海陸交通での利用が多く、多くの人が集まったため商業が盛んで、毎月四日に定期的に市が行われるため「四日市」の名がついたとされる。
 また、伊勢神宮への参堂である伊勢街道への分岐点でもあり、伊勢まで海上十里で船で渡れる便もあった。
 永餅が有名で、藤堂高虎が「武運ながき餅を食うは幸先よし」と、足軽の頃に言ったとされている。
 現在、四日市市日永には、近辺で東海道で唯一残った松が生えており、当時の面影を知ることができる。
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2007/5/29


石部宿 Ishibe-juku Ishibe-juku

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 石部宿(いしべじゅく)は、滋賀県湖南市にあった東海道51番目の宿場である。
 宿場の誕生については諸説ある。
 元亀二(1571)年、信長の治下で5ヶ村が合わさり「石部町」を形成した時点とする説。
 慶長二(1597)年、秀吉治下で信濃善光寺の輸送に役夫・伝馬を課せられた時点とする説。
 慶長六(1601)年、東海道各宿に朱印状が発せられ、伝馬徴発の定書が下付された時点とする説などである。
 石部宿は「京立ち石部泊り」と言われ、京都を出て1日目の行程に位置していた。近くには金山の採掘跡があり、堅実な人の例えで呼ばれる「石部金吉」はここから来ている。
 現在、石部宿駅や田楽茶屋の無料休憩所が整備されている。
 石部宿は、伊勢参宮街道との分岐点として多くの旅人で賑わった、京都から江戸へ下る旅人の多くが最初に宿泊した宿場である。
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