NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/5/31


妙立寺 Myouryu-ji Myoryuji Temple

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 初代藩主前田利家は、政治の理念を日蓮宗・法華経の中道精神に求め、藩を守る祈願所として妙立寺を建立。天正一三(1583)年のことである。その後、寛永二十(1643)年に、加賀三代藩主前田利常が現在の地へ移築・建立した。
 利常の頃は既に徳川幕府の基礎固めが整い、諸大名は幕府の隠密の動きに敏感になっていた。利常は隠密を欺くため鼻毛を伸ばしてバカを装った。が、その一方では産業を育て、芸能文化を勧め、いざという時の兵舎代わりとして寺院を移築、建立した。その中心が妙立寺であった。
 一見、二階建てのようであるが実は四階七層建て。隠し通路、隠し部屋、隠し階段、どんでん返し、逃げ穴、二枚戸、落とし穴として機能する賽銭箱、など、いたるところに仕掛け・からくりがある。別名、忍者寺、と呼ばれる由縁である。
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2007/1/23


忍者屋敷 Ninjya-Yashiki Ninja House

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 三重県伊賀市上野には、伊賀流忍者博物館がある。その中にある忍者屋敷は、伊賀の土豪屋敷を移築した物である。
 伊賀地方では、この地で多く採れる薬草から秘薬の製造や、火薬の調合を行なっていた。その門外不出の秘密の製造方法を書き留めた巻物を狙い、賊の侵入がしばしば起こっていたという。
 そこで自衛のために、家の至る所にからくりを設け、巻物を隠したり、逃げるための時間を稼ぎだした。これらのからくりが、忍者屋敷と呼ばれる所以である。
 外観は何の変哲もないごく普通の茅葺きの農家だが、屋敷のあちこちに仕掛けが施されている。
 屋敷内ではドンデン返し、仕掛け戸、もの隠しなど、実演を交えて説明してくれる。
 伊賀の忍者屋敷は、戦国の昔を体感出来るアトラクション的建物である。
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2006/12/15


松尾芭蕉 Matsuo-bashou Matsuo Bahou

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 江戸前期の俳人。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月庵・風羅坊など。
 1644年、伊賀の国に生まれる。若くして俳諧の道に入り、31歳の時に江戸へ移り、職業的な俳諧師として身を立てる。深川に草庵を結び、芭蕉の木を植えたことから「芭蕉庵」と名づけた。それまでの滑稽味を主流とした俳諧に高い芸術性を賦与し、蕉風を確立。日本各地を旅しながら多くの作品を残し、日本短詩型文学の一潮流を極めた。
 芭蕉が生きた頃、俳諧師は旅をして暮らすことが多かった。彼らの情報網は日本全土に広がり、文化的なネットワークを築いていた。芭蕉も代表作『奥の細道』では、東北・北陸2400キロを約半年で巡っている。その異様な速さと彼の出生地から、忍者だったという説もある。
 1694年、やはり旅の途中にあった芭蕉は、大阪御堂筋の旅宿で客死。享年50歳だった。
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