NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/12/28


小沢式三番 Ozawa-shikisanba 

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 桧原村小沢地区に古来より伝わる「小沢式三番(おざわしきさんば)」は、鎮守である伊勢清峯神社(いせせいほうじんじゃ)の秋の例祭に行われる神事で、能の「翁」を歌舞伎舞踊化したものだという。関東に伝わる式三番は小沢地区の他にはニヶ所のみで、珍しい神事である。
 この歴史は古く、約三〇〇年前に一度途絶えたとされるが、甲州郡内地方から師匠を頼んで復活させたとされる。現存する翁の衣裳には明和七(1770)年八月吉日の日付が、面箱蓋には安永三(1774)年という年号がそれぞれ銘記されている。
 神事を行うに当たって、三役は別火斎戒(べっかさいかい)という、食事など全ての事を女性の手を借りずに自ら行って、一週間身を清める慣習が今も残っているという。
 五穀豊穣などを祈願するこの古式ゆかしい神事は、都の無形民俗文化財の指定を受け、地元の若者衆たちによって今も伝えられている。
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白丸の獅子舞(元栖神社獅子舞) Shiromaru-no-shishi-mai(Motosu-jinja-shishi-mai) 

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 白丸の獅子舞(しろまるのししまい)は、白丸地区の鎮守の元栖神社(もとすじんじゃ)の八月の例大祭において、村内各社寺に奉納される伝統芸能である。
 この地区には多くの獅子舞が伝えられており、それぞれ三〇〇年以上の歴史を持つとされているが、起源は明らかにされていないという。明治半ば頃に、一時廃絶した白丸の獅子舞だが、明治の終わりから昭和にかけ、若者衆が中心となり先人達の教えを受け復活、今に伝えられているという。
 三匹獅子という形に加え、道明一名、囃子方二名、笛五名、棒使い二名によって、「神立ち」「場狂い」「洞入り」などの演目が次々と披露される。
 早朝から夕方まで、小さな集落の住民たちが参加し、天下泰平・五穀豊穣・家内安全を願って行われる祭りである。
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2007/12/14


川上踊 Kawakami-odori 

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 いちき串木野市は、鹿児島県の薩摩半島にある、吹上浜の北端に位置する。薩摩藩の「三国名勝図会」に記されている優美な霊峰・冠岳があり、また地元でつけあげと呼ばれる「さつまあげ」は串木野地区が発祥の地として知られている。
 そして川上地区には、古くから「川上踊(かわかみおどり)」が伝承されている。五穀豊穣と平和を願うために始められた踊りであり、四百年ほどの歴史をもつ。
 毎年八月二六日におこなれていたが、第二次世界大戦により中断を余儀なくされた。その後、昭和三九(1694)年に復活し、現在は川上踊保存会によって伝承され、八月下旬の日曜に披露されている。
 踊り子は、鐘と太鼓を打ち鳴らしながら終日踊り歩き、勇壮華麗な姿をみせる。
 踊りは全部で二三曲披露され、約五ヶ所の神社などに奉納する。
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2007/12/7


川尻筆 Kawajiri-fude 

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 天保九(1838)年、広島県川尻の菊谷三蔵(きくたにさんぞう)が、現在の兵庫県にあたる摂州の有馬から筆を仕入れ、寺子屋などで販売したのが「川尻筆(かわじりふで)」の始まりである。
 その後、筆を仕入れるだけでなく、この地で筆の製造を始めることを村人に呼びかけ、安政六(1859)年に初めて川尻筆がつくられた。川尻の上野八重吉(うえのやえきち)が有馬や松江から職人を呼び、初めての試みとして高品質の「ねりまぜ製法」、大量生産の「ぼんまぜ製法」を扱い、川尻筆の名は次第に全国に広まった。
 明治時代における学制の制定から筆の需要が高まり、さらに川尻筆墨株式会社の設立もあって、技術や経営でも発展し続けた。
 第二次大戦中に多くの職人を失ったうえ、戦後の学制の変更で学校習字が廃止され、生産が衰退したが、昭和四二(1967)年に「川尻毛筆事業共同組合」が設立、続いて昭和四六(1971)年には学校習字が復活した。平成三(1991)年に県の伝統的工芸品の指定を受け、川尻筆の伝統は今なお大事に受け継がれている。
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2007/12/3


おぎおんさあ・かごしま夏祭り Ogionsaa Kagoshima-natsu-matsuri 

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 おぎおんさあ・かごしま夏祭りは鹿児島の夏の風物詩として有名な、鹿児島市天文館地区を中心に繰り広げられる壮大な夏祭りである。
 おぎおんさあ(祇園祭)の由来は平安時代、貞観一一(869)年に日本全国に疫病が蔓延したときに遡る。時の朝廷は疫病の原因は八坂神社の御祭神である素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであると、その霊を鎮める御霊会(ごりょうえ)を全国で行った。これが祇園祭の始まりといわれている。江戸時代に入ると庶民の祭りとして定着していった。
 祭りは市を上げて行われ、八坂神社のご神幸行列や夏祭大ハンヤ等など色々なイベントが開かれている。
 近年は三味線、太鼓などによる祇園ばやしも復活し、多くの人で賑わいをみせている。
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2007/10/12


杉原紙 Sugihara-gami Sugihara Paper

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 杉原紙は、兵庫県多可町加美区に千年以上受け継がれている伝統工芸品だ。
 奥深い谷からこんこんと湧き出る冷たく澄んだ水と、雪の舞う厳しい気候風土に育まれた楮(こうぞ)により生まれた杉原紙。
 奈良時代から歴史がはじまり、他の地方より進んだ製紙技術で写経用紙や薄紙を製造。紙の質・生産量ともに日本一と呼ばれた。しかし、時代の推移とともに洋紙に取って代わられ、大正十四年、杉原谷での紙漉きは幕を閉じたのだった。
 町をあげて日本一の名紙と謳われた杉原紙の保存に取り組むようになったのは昭和四一年から。杉原紙発祥の地の記念碑を立て、昭和四七年には杉原紙研究所を設立、昔ながらの製法で紙漉きを再開、現在では年間700キログラムの紙を生産している。昭和五八年には、県の重要無形文化財に指定されるまでに復活を遂げたのである。
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2007/9/7


羅 Ra 

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 羅(ら)は羅織とも言われ、隣り合う経糸が搦み合って、まるで編み物のような特色を示す綟り織(もじりおり)の一種であり、そうした綟り織の中でも最も古いものと考えられている。
 通常、織物では経糸は平行し、交わることはないが、羅では隣り合った経糸同士が交差する。そして更に隣の経糸とも交差し、網目状に広がっていく特色を持つ。その様が「編み物」と表現される由縁である。
 中国や南米ペルーに紀元前からあるもので、日本には奈良時代に中国から伝来したと見られ、飛鳥時代や奈良時代の遺品に、多種多様なものが今に伝えられている。
 平安時代には、貴族の象徴である烏帽子のほとんどがこの羅で織られたものであるほどだが、平安時代移行は次第に衰退し、江戸時代では最も単純な羅が織られはしていたものの、本格的な復活は昭和に入ってからである。
 夏の織物の王様ともいわれ、軽やかで張りのある生地が織りあがる羅は、二千年経った今も愛され続けている逸品である。
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2007/9/6


立佞武多 Tachi-neputa Tachineputa Festival

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 立佞武多(たちねぷた)とは、約八〇年前まで五所川原市で行われていたねぷたを、平成一〇年に復活させた夏祭りである。青森市の青森ねぶた祭り、弘前市の弘前ねぷた祭りと共に青森三大佞武多のひとつに数えられている。
 この祭りは明治の中頃に豪商たちが始めたと伝えられ、巨大なねぷたが練り歩くのが特徴だった。しかし大正に入り、電線の普及とともに巨大ねぷたは背丈を低くしていった。小型化していったねぷたは衰退していったが、平成五(1993)年に当時の設計図が発見され、その後「たちねぷた復元の会」が発足した。
 現在では当時と変わらない大きさに復刻させ、高さ二〇メートル以上、ビルの七階くらいの高さに及ぶ山車が壮大に運行する。毎年八月四日から五日間「ヤッテマレ」の掛け声とともに色彩鮮やかな山車が練り歩き、多くの観光客を楽しませている。
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