NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/1


鎌田流棒の手 Kamata-ryuu-bou-no-te Kamata-ryu Bo-no-te

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 天正の時代、岩崎城主丹羽勘助氏次(にわかんすけうじつぐ)が領民達の武術の指南役として鎌田兵太寛信(かまたへいたひろのぶ)を家臣として迎えた。寛信は武術の達人で特に棒術を得意としていた浪人であった。
 後に「小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)」においては勇戦した寛信であったが、戦後は戦没者の供養のため仏門に入り諸国を行脚した。
 郷里尾張を訪れた際、村民の懇願で、当地に鎌田流の道場を開設。やがて「鎌田流棒の手(かまたりゅうぼうのて)」は三河地方にも広まっていった。
 その後、農民の戦力であった棒の手は長い歴史を経て、農村の若者が演ずる農民芸能として神社の祭礼に奉納される行事となっていった。
 独特の掛け声で一・一メートルの棒を操る勇壮な姿は見物である。県の無形文化財に指定され、次の代に伝えるべく熱意を持つ人々によって今もなお技が磨かれ受け継がれている。
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2008/1/15


郭公(カッコウ) Kakkou 

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 「郭公(カッコウ)」は、カッコウ目カッコウ科に属し、全長は35センチメートルの鳥である。
 郭公は夏鳥で、4月末頃から渡ってくる。高原や河原の林、広い草原に分布し、姿も見つけやすい。
 郭公は、自分では巣を作らず、他の鳥の巣に卵を生みつけてヒナを育ててもらう、択卵という方法をとる鳥である。モズ、オオヨシキリ、ホオジロなどの巣に托卵し、巣の持ち主のヒナより、郭公のヒナのほうが早く生まれることが多く、ヒナは生まれてから間もなく、まだ目が開いてないうちに、巣にいる他の種類のヒナや孵化する前の卵を外に出し、自分だけが餌を確保して成長できるようにするというものだ。
 郭公の親鳥も、似た卵を生む鳥の巣を選び、托卵するという。托卵できると、子どもより先に南の国へ帰ってしまう。最近は、托卵する巣の鳥に気づかれ、郭公の卵を落とされる事もあるようだ。
 高原で「カッコウ」と爽やかに鳴き、日本をはじめ世界各国で郭公が歌にでてくる印象とは別に、他の鳥に子育てしてもらうという珍しい習性を持ち合わる鳥である。
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2007/12/25


小湊 昭尚 Kominato Akihisa Akihisa Kominato

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 小湊昭尚(こみなとあきひさ)は尺八奏者、民謡小湊流三代目。1978年、民謡小湊流家元の長男として福島県に生まれる。父は民謡歌手の小湊美鶴、姉は歌手の小湊美和。5歳より両親の手ほどきを受け、舞台活動を開始。十代から琴古(きんこ)流の古典尺八奏法を学び、1995年より人間国宝の山口五郎(故人)に師事。二十歳で民謡小湊流三代目襲名。東京芸術大学音楽学部邦楽科尺八専攻卒業後、純邦楽はもちろん、フュージョン、ボサノヴァなど洋楽とのセッションを開始。
 2004年、和楽器ユニットZAN(ザン)でメジャーデビュー。民謡や尺八演奏で身につけた技術でヴォーカル、尺八奏者として新たな道を切り開き、現在ZANと並行してAEKA(アエカ)、Priest(プリースト)、般若帝国など複数のユニットで幅広く活動中。海外公演も積極的に行っている。
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2007/10/23


長唄 Naga-uta 

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 長唄(ながうた)は、江戸で歌舞伎音楽として発達した三味線音楽の一種で、劇場に結びついて主に歌舞伎の舞踊の伴奏をつとめた。
 初代・中村勘三郎の弟の杵屋勘五郎(1615~1699)により始められたとされ、語り物である義太夫や清元に比べて、音楽性が高い。
 浄瑠璃の影響を受け、語り物の要素もあり、伴奏には三味線のほかに囃子も加わる。長唄の囃子は能の囃子に用いられる楽器をそのまま流用し、笛、小鼓、大鼓、太鼓で構成される。
 のちには、歌舞伎に関係なく作曲されるようにもなった。
 長唄は明るい声で歌われるので、それに合わせて三味線も軽やかな音色で演奏される。
 代表曲として、「勧進帳」「京鹿子娘道成寺」「越後獅子」「藤娘」「連獅子」などがある。
 長唄は、歌舞伎の伴奏として発展した伝統芸能である。
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2007/10/22


住吉の火祭り Sumiyoshi-no-hi-matsuri Sumiyoshi Shrine Fire Festival

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 住吉の火祭り(すみよしのひまつり)は、毎年1月の第2土曜に、勝部(かつべ)の火祭りとともに開催される祭りで、滋賀県の無形民族文化財に指定されている。
 今から約800年前、土御門天皇(つちみかどてんのう)が危篤となり、原因が三上山の大ムカデの危害によるとされた。そこで藤原秀郷が三本の弓矢を一度に放ち、大ムカデは頭が住吉神社に、胴体は勝部神社に、そして尾部は瀬田の唐橋近くまで飛び散った。この遺骸はそれぞれの地で供養され、焼き払われたことから、両社に分かれて祭りが行われるようになった。
 午前中に神社境内で神事が行われ、年寄衆の弓射式で祭りが開始される。夜には白と赤のふんどし姿の若者たちが蛇の頭に似せた約6メートル、重量約400キロの大松明をかつぎ込み、無病息災を祈願して奉火する。
 若者たちのかけ声は勝部では「御脳平癒」を意味する「ごーよ ひょーよ」なのに対して、住吉では「平癒」を意味する「へーゆ へーゆ」とそれぞれ違うのも特徴である。
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2007/10/17


香川 蹴鞠 Kagawa Kemari Kemari in Kagawa

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 香川の蹴鞠(けまり)は毎年五月五日、七月七日、年末に金刀比羅宮で公開される蹴鞠である。五月五日に行われる蹴鞠を「奉納蹴鞠」、七月七日に行われるのを「七夕鞠」、年末のものを「納め鞠」という。
 蹴鞠は一四〇〇年ぐらい前に中国から伝わった遊びで鞠庭(まりにわ)と呼ばれる神聖な場所で行われる。相手に受け取りやすく、打ち返しやすい球を返すのが大切で勝敗よりも見た目の美しさが重視される。
 蹴鞠が行われる鞠庭には神職や巫女が鞠水干(まりすいかん)や鞠ばかまと呼ばれる色とりどりの衣装で現れ、座の長老である宮司が梶(かじ)の枝から解き放つ「解鞠(ときまり)」という秘伝の儀式を行い、六人が輪になり、「アリヤー」「アリ」の独特の掛け声とともに蹴鞠が行われる。
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勝部の火祭り Katsube-no-hi-matsuri Katsube Shrine Fire Festival

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 勝部の火祭り(かつべのひまつり)は、毎年1月の第2土曜に、住吉の火祭り(すみよしのひまつり)とともに開催される祭りで、県の無形民族文化財に指定されている。
 ここ勝部の地には、藤原秀郷の放った矢で息絶えた大ムカデの胴体が落ちてきて、それを焼き払ったことから、大ムカデをかたどった松明が用意される。軸が長さ約6メートル、直径約40センチの巨大な円柱である。
 勝部神社は大化五(649)年物部宿禰広国(もののべすくねひろくに)が祖神を祀ったといわれる古い神社で、戦国時代には近江守護の佐々木氏や、織田氏・豊臣氏にも厚い庇護を受けたとされている。
 この境内で主役のムカデである12本の巨大松明に、御神酒・鰯・豆腐を供えて祈祷したあと、若者が褌姿で揃い、神前の御神火から火をもらって一斉に点奉火する。
 若者たちのかけ声は勝部では「御脳平癒」を意味する「ごーよ ひょーよ」、住吉では「平癒」を意味する「へーゆ へーゆ」とそれぞれ違うのも特徴である。
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2007/10/11


宇和島 西江寺 Uwajima Seigou-ji 

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 西江寺(せいごうじ)は臨済宗の禅寺で、宇和島では「えんま様」と呼ばれ親しまれている。貞治四(1365)年、京都東福寺開山聖一国師(しょういちこくし)の法孫和尚によって開山された。寛永二(1625)年には宇和島藩初代藩主の伊達秀宗(だてひでむね)により現在地に移され、今日に至っている。
 本堂内には、伊予生まれの天才芸術家・村上天心(むらかみてんしん)作の「閻魔大王木彫座像」「閻魔大王画彫像」「地獄極楽絵図」などがあり、広々とした堂内に迫力を添えている。年に数回、一般公開される。
 寺の庭園は県の名勝に指定。三尊石を中心に左右対象に鶴亀を配し 枯山水の様式を用い、バランスよく仕上げられている。桃山式より江戸初期の作庭といわれ、時代の特色を取り入れようと苦心した跡が見られる。清水を使わない枯山水の美的効果がよく生かされている点では、四国一との呼び声も高い。
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