NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/29


槍 Yari 

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 槍(やり)とは、相手を叩いたり突き刺すための武器の一種である。長く伸びた棒の先に突き用の刀剣が装着されたもので、歴史の古い武器である。
 主に、柄と槍頭の二つの部品で構成される。柄は主に木製で、長さは数cmから長い物では5m以上に及ぶ。槍頭は硬質の刃状で、石製の物から金属製の物まで時代によって異なる。
 獣に対する狩の手段として、鋭い牙や爪、突進力を有する動物に槍の持つリーチは有効であった。また、対人の戦闘・戦争においても、剣や棍棒を持った相手のリーチ外から攻撃する、馬上の相手を攻撃する、盾越しに攻撃するなど、用途は多岐に渡る。
 その長さ故に狭い場所での取り回しが欠点となるが、集団戦では味方同士で連携する事により補えるため、洋の東西を問わずして戦場における主兵装として活躍した。
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2008/9/10


薙刀 Naginata 

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 薙刀(なぎなた)といえば、現代では女子の武道であるが、古来より戦での武器として使われていた。
 薙刀の歴史に関しては不明な点が多く、起源も定かではない。平安時代中期に平将門と藤原純友によって起こされた承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)の合戦絵巻に薙刀らしき長刀が描かれている。戦において長刀は人馬を薙ぎ払うのに有効であり、改良が加えられ長刀よりも扱いやすい薙刀に変化していったと考えられる。
 その後、僧兵の多くが薙刀を使用し、源平の戦いでは主要な武器となった。かの有名な武蔵坊弁慶も薙刀を武器としている。
 戦国時代に入ると槍がその機動性から薙刀にとってかわり、江戸時代に入り戦が無くなると、薙刀は婦女子の心身を鍛える武道として武家社会に定着していった。
 明治以降は廃刀令のため、武器としての薙刀は無くなったが、明治中期には人間修養のための武道として復活し、太平洋戦争時代には学校教育の中に薙刀は取り入れられた。
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2008/2/6


仕込み刀 Shikomi-gatana 

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 仕込み刀(しこみかたな)とは、刀とわからないように細工された武器のことである、多くは杖や扇や煙管(きせる)に刀が仕込まれており、大きさも大小さまざまであった。
 仁侠映画などで見る白鞘の短刀も、木刀に偽装した仕込み刀と言えるだろう。
 もともとは、敵の不意をつくための武器、または、狭い場所で能力を発揮するために考え出された、という説もある。また、扇や煙管に細工された仕込刀は、敵に対する武器というより、実際には自害などの最後の手段のための武器であったと言われている。
 特に戦国時代に入ると、相手国や軍の情勢を探ることは戦に勝利するためには重要なことであった。そのため、敵地に進入する場合、武器を隠す必要があったとう。そのため、仕込み杖など様々な形の仕込み刀が考案された。
 江戸時代に入ると「忍び」と呼ばれる密偵のような人々が、全国の大名の情勢を探っていたと言われる。この場合も、外見から武器と気づかれないよう、色々と偽装がほどこされていたという。
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2007/11/19


【吉】 Kitsu,Kichi Luck, Good Luck

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 小さな鉞(まさかり)つまり「士」を祝詞の器「口」の上に置く形です。今から50年前に、「口」が人体の口ではなく、祝詞の器をあらわすことが白川文字学ではじめて証明されました。
 大きな鉞の頭部を象る「王」という字体からもわかるように、武器である鉞には大変な霊力が宿っていると一般に考えられていました。そして祝詞の器「口」の上に物を置くことは二重の蓋をしていることを表す悟(吾)と同じです。ここでは武士階級の小さな鉞ですが、さらに祈りの効果を上げるために広く人々の行った行動と思われます。そのため、これは軍事のことをも含めて、一般に祝禱(しゅくとう)に用いられます。
 一神教でも神様にお願い事をすることはありますが、東洋の宗教のように願い事の現実化の可能性を問う吉凶判断はありません。神社で御神籤(おみくじ)をひくことがよくありますが、一神教ではそれはまったく考えられません。吉凶判断で人々に人生を反省させるという宗教観は、東洋には本来自分の祈りごとをはっきりとさせるという基本伝統があることを示しているのではないでしょうか。
 
■ 吉・金文(きんぶん)左
■ 吉・甲骨文(こうこつぶん)右
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2007/3/28


柏谷横穴群 Kashiya-ouketsu -gun 

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 柏谷横穴群は静岡県田方郡函南町、柏谷公園に位置する古墳である。
 6世紀末から8世紀までに墓地として使われた横穴群。
 東西600メートル、南北250メートルにおよび、300基以上が存在する全国でも有数の規模を誇り、「柏谷の百穴」とも呼ばれる。一部は国指定史跡。
 長方形の玄室を作り、玄室までの羨道を造った形のものが多い。入り口は閉塞石と言われる川原石で塞がれていた。
 埋葬品は匂玉や菅玉、耳飾りの装飾品、武器、馬具の鉄製品、食器などの土器が出土している。
 柏谷公園は古墳以外に復元した竪穴住居と高床倉庫があり、古代の建物や史跡に身近に触れ合える場所となっている。
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2007/1/29


天田昭次(人間国宝) Amata Akitsugu Akitsugu Amata (Living National Treasure)

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 昭和二(1927)年、刀匠、天田貞吉の長男として本田村(現・新潟県新発田村)に生まれる。平成九(1997)年、刀匠として重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
 氏は父を振り返り「天才肌なところがあった」と語る。父が三十八歳の若さで亡くなったとき、氏はわずか十歳。父の跡を継いで刀匠になるために、小学校卒業と同時に東京の道場に入門する。以降、刀づくりに生涯をささげることとなった。三十三歳のときに病に倒れ、八年間も闘病生活を送るなど、けっして順風満帆ではなかったが、刀づくりへの執念が氏を蘇らせた。
 長年の努力が結集し、現代の刀匠の登竜門「新作名刀展覧会」で初めて「正宗賞」を受賞したのが四一歳のとき。才能と努力が世間に認められるところとなった。
 現在もなお全国各地の砂鉄を求め、たゆまぬ研鑽を続けながら日本刀の世界に挑み続けている。
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2007/1/26


松前城 Matsumae-jo Matsumae Castle

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 日本における最後の旧式城郭。別名は福山城(ふくやまじょう)安政元年(1854)年完成。
 軍学者・市川一学(いちかわ・いちがく)の設計で、本丸・二の丸・三の丸からなり、本丸東南隅には三層の天守が築かれた。
 三の丸には海に向けて7基の砲台が置かれ、城外にも9砲台25門の大砲が配備されていることから、海からの攻撃への備えを重視していたことがわかる。
 築城後わずか13年で炎上し、それとともに松前藩も実質的に滅んだ。
 昭和三十五(1960)年に外観が復元され、現在天守の内部は、「松前城資料館」となっており、ここには松前藩の御用船だった長者丸の展示品や「桜下美人図」など蠣崎波響の絵画、鎧(よろい)や衣服など藩政時代のさまざまな資料が展示されている。
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2007/1/22


金沢城 菱櫓 Kanazawajyo Hishiyagura Kanazawa Castle Hishi Turret

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 かつて菱櫓は、金沢城の大手と搦手(からめて)、つまり裏門を見張る櫓であった。
 櫓とは矢の倉ともいわれ、武器倉庫であることが多いが、菱櫓は見張りの役割を担っていた。
 高さ一一.七メートルの石垣の上に建てられた菱櫓。それ自体は三階建てで約十七メートルあり、併せて三〇メートル近い威容となる。
 菱櫓の名前の由来となったのは、建物の平面の形である。
 菱形になっており、四隅の内角は八〇度と一〇〇度。柱はおおよそ一〇〇本あるが、それらも全て菱形になっており、建設には高度な技術を要する。
 この菱櫓と橋爪門続櫓をつなぐのが、五十間長屋である。
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