NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/3/13


戸切地陣屋 Hekirichi-jinya The Ruin of Hekirichi Jinya

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 戸切地陣屋(へきりちじんや)は、北海道北斗市野崎にあった陣地である。1965年、国指定史跡とされる。
 安政2(1855)年、幕府の命により、蝦夷地防衛強化策として築かれた松前藩の陣地である。
 基本は蘭学の築城書による四稜堡で、大砲六門を据え、宿舎22棟を建て、約120人で守備していたという。
 明治元(1868)年、箱館戦争で幕府脱走軍の進撃にともない、守護隊の手によって火を付けられ、放棄された。
 現在、建物跡はきれいに整備されて残っており、その一つ一つに、詳しい説明がついている。
 また、この陣屋跡に続く道は上磯町を代表する桜の名所として知られ、「陣屋桜」として名高い。
 戸切地陣屋は、当時の国際情勢を窺える、資料価値の高い築城史跡である。
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2007/1/26


福沢旧居 Fukuzawa-kyuukyo The Fukuzawa Residence

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 福沢旧居は、大分県中津市留守町にある、福沢諭吉が幼年・少年・青年時代を過ごした、国指定の史跡となっている家である。
 諭吉は天保五(1835)年に大阪堂島の中津藩蔵屋敷で生まれた。父が死亡したので諭吉が1歳6ヶ月の時に帰藩し、この家で19歳まで暮らした。
 庭に建つ土蔵は諭吉が改造し、勉学に励んだという。母屋は、起居した場所である。また隣接する記念館には、諭吉に関する様々な資料が展示されている。
 その後19歳で長崎に蘭学の勉強に行った諭吉は、やがて英語の必要性を痛感し、ほぼ独学で英語の勉強を始め、最終的に咸臨丸でアメリカまで行っている。
 後に、340万部売れたという「学問のすゝめ」を出版、慶応義塾の創始者となる。
 福沢旧居は、民主主義の先覚者・諭吉の若年期を偲ばせる歴史的家屋である。
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2006/12/15


適塾 Teki-juku Tekijuku 

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 適塾は蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が、江戸時代後期の天保9年(1838年)に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。
この塾では日本を代表する人物、福沢諭吉、大村益次郎、高松凌雲など、幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出した。漫画家、手塚治虫の曽祖父にあたる手塚良仙も門下生の一人であった。
塾は、明治維新後、大坂医学校の開校にあたり、教師・塾生は移籍、その歴史を閉じた。現在は大阪大学医学部であり、日本で一番古くからの医学教育の伝統を継承している。
適塾の建物は現在も適塾管理運営委員会の管轄の下で保存されている。建物の右隣には、緒方洪庵の銅像がある。二階には塾生の部屋があり、その柱には無数の刀傷が残っている。これはおそらく、ここで激論の末にできた傷だと言われており、その時代の人物、背景が伺われる。
昭和39年(1964)国の重要文化財に指定されている。
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