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2008/2/7


木牟礼城趾 Kinomure-joushi 

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 木牟礼城趾(きむれじょうし)は鹿児島県出水郡にある城跡である。
 文治二(1186)年近衛家に仕えていた島津忠久が薩摩、大隅、日向三国の地頭職に任ぜられた。忠久は家臣の本田貞親に命じて、山門院、現在の野田町、高尾野などの地区に木牟礼城を築き三州(三国)を監視した。島津忠久自身は居城することはなかったが、本田貞親は城内に竹林城を築き、ここを居住地としていたと伝えられている。
 その後、島津忠久は鎌倉幕府の信頼を厚く受け、この城を中心に島津三州支配の基礎を作ったといわれている。
 しかし、南北朝時代に入ると島津氏の総州家と奥州家両家で勢力争いが起き、木牟礼城を拠点としていた総州家の島津守久は奥州家の久豊に攻められ、城は落城してしまい、木牟礼城もその役割を終えてしまったのである。
 現在は高尾野町江内の国道3号線沿いの台地に忠久を祀る「龍尾神社(若宮神社)」があり、笠懸道、水の手口、西御門等の跡が残り、石碑が建てられている。
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2008/2/5


上名 棒踊 Kanmyou Bou-odori 

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 姶良町(あいらちょう)は、鹿児島県のほぼ中央に位置し、薩摩半島と大隅半島のちょうど中間に位置する町である。姶良とは、女性の顔が美しく手元が器用との意味がある。
 二月の黒島神社の例祭日に五穀豊穣を願って奉納されるのが、古くから伝わる伝統芸能、上名棒踊(かんみょうぼうおどり)である。
 棒踊の由来は、朝鮮の役の帰国祝いに踊られたという説と、串木野の住人であった三左衛門が伝授した踊りという説がある。
 この踊りは、唄い手二人、踊り子二四人で構成される。最初は縦二列で並び、道案内役であるどら打ちが先導する。二人に続いて三人、四人、六人の組になりながら、カシの棒を打ち合い、勇壮な姿で踊りを披露する。
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2007/12/14


花尾神社 Hanao-jinja 

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 花尾神社(はなおじんじゃ)は鹿児島市花尾町にある島津藩所縁の神社。国道を少し離れた田園風景の中に朱塗りの赤い鳥居が立ち、杉の林へ参道が伸びている。
 島津氏初代・島津忠久は源頼朝と丹後局の間に生まれた子という伝説がある。この神社は忠久が薩摩・大隅・日向の三州の守護職に任ぜられた際に御堂を建て、頼朝尊像を安置、創建した。
 現在残る社殿は正徳三(1713)年建立のもの。幣殿や向拝に、鶴と松、牡丹と唐獅子、様々な花や長い牙をもつ象など、明るい色彩の細かな彫刻と装飾がある。さつま日光とも称されており、いつまでも見ていたくなる様な風情だ。
 天井絵は401枚の彩色による精密な草花の写生絵が見られる。嘉永六(1853)年狩野派の絵師・能勢一清が描いたとされているが、現存している絵がそうであるかは定かではない。
 社殿の横には丹後局の墓、御苔石があり、安産・子授のお守りに石の苔を持ちかえる人が多い。
 昭和五五(1980)年に県の有形文化財となっている。
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大口筋白銀坂 Ookuchi-suji-shirakane-zaka 

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 石畳が残る薩摩の旧街道として知られるのが、大口筋白銀坂(おおくちすじしらかねざか)である。
 大口筋とは、鹿児島城下から熊本の亀坂峠までの、全長約七〇キロメートルの街道のことをいう。
 中でも白銀坂は、鹿児島市牟礼岡から姶良郡姶良町脇元までの約三キロの道のりをいい、古代より近世にかけて薩摩国と大隅国の国境があった。戦国時代には、島津貴久や義弘などの武将たちが、この坂に陣を構えて、豪族との合戦の舞台になったといわれている。
 江戸時代には、鹿児島潘の主用街道であった大口筋の難所として、多くの人々に知られていた。
 明治時代に入ると、国道や鉄道の開通によりこの道は利用されなくなった。しかし歴史的に価値があるとされ、平成八年から一五年にかけて「歴史の道整備活用推進事業」がおこなわれ、国土交通省の歴史国道に指定された。
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2007/9/19


一乗院跡 Ichijou-in-ato 

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 一乗院跡(いちじょういんあと)は、鹿児島県南さつま市坊津町にある寺跡である。県の文化財に指定されている。
 敏達天皇一二(583)年、百済の僧・日羅が仏教弘布のため建立したのが一乗院であり、その末寺は薩摩大隅の国内四七ヶ寺、坊津でも一八ヶ寺あったと言われる。
 日羅上人は自ら仏像三体を刻み、上中下の三坊舎を設けて安置した。坊津の名称は、これに由来する。
 長承二(1133)年、鳥羽上皇により上皇の願所となり、「如意珠山一乗院」の称号を賜る。
 延文二(1357)年に、成円上人が寺を島津氏の協力を得て中興し、天文一五(1545)年には後奈良上皇の願所となった。
 しかし明治二(1869)年、廃仏毀釈によって廃寺となり、現在は仁王石像一対と歴代上人の墓が残るのみとなっている。
 一乗院跡は、古の繁栄が偲ばれる史跡である。
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福昌寺跡 Fukushou-ji-ato 

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 鹿児島市にある福昌寺(ふくしょうじ)跡地は、現在の玉龍高校の裏手に位置している。
 応永元(1394)年、島津氏第七代当主・島津元久の要請により曹洞宗の高僧・石屋真梁(せきおくしんりょう)が建立し、以後島津家の菩提寺となった。
 江戸時代の絵図「三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)」には、幾重にも連なる建物と大回廊を持つ南九州屈指の大加羅として登場する。薩摩、大隅、日向の三州の僧侶を支配する僧録所もあり、千五百人の僧侶がいたという。
 天文一八(1549)年、島津貴久から宣教の許可を得たフランシスコ・ザビエルがこの福昌寺を宿所とし、当時の福昌寺住持であった忍室(にんじつ)と互いの宗教について親交を深めた。
 明治二(1869)年、神道国教・祭政一致、仏教施設の廃止という政府の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、貴重な建築群や歴代藩主が奉納した寺宝類もろとも破壊されてしまう。
 現在、周囲は掃き浄められ、緑に囲まれて島津家や歴代の高僧の美しい墓地群が残っている。
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2007/9/4


鹿児島 弥五郎どん祭り Kagoshima Yagorou-don-matsuris Yagoro-don Festival in Kagoshima

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 鹿児島の弥五郎どん祭り(やごろうどんまつり)は、鹿児島県曽於市大隅町にある岩川八幡神社にて毎年11月3日に行われている祭りである。鹿児島三大祭りの一つとされている。
 「弥五郎どんまつり」は岩川八幡神社に伝わる五穀豊穣を祈ったご神幸行列の祭りで、六代にわたる天皇に仕えたとされる武内宿禰(たけのうちすくね、84~367)、隼人族の首領などがそのモデルではないかと言われている。
 身の丈4.85m、ギョロリとした眼に太い眉、大小2本の刀を携えた勇ましい弥五郎どんが街中を練り歩く「浜下り」が、祭りの最大の見所とされている。
 弥五郎どんゆかりのものにふれれば、一年を無病息災で過ごせると言われている。
 鹿児島の弥五郎どん祭りは、南九州を代表する勇壮で迫力ある秋祭りである。
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2007/4/6


桜島 Sakura-Zima 

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 桜島は、鹿児島県の薩摩半島と大隅半島に挟まれた錦江(きんこう)湾(鹿児島湾)に浮かぶ東西12km、南北10kmの半島である。大正三(1914)年の噴火で大隈半島と陸続きとなった。
 桜島は島(半島)全体が標高1117mの御岳(おんたけ)という海上活火山によって形成され、日本200名山にも選ばれている。まさに海からそびえる山である。
 御岳は富士山と同じコニーデ型の複式火山(北岳・中岳・南岳)で、南岳は今も活発な噴火活動が続き、古代より30以上の噴火の記録が残されている。
 東シナ海に沈む夕陽をうけ、その身を緋色に染めて、どこまでも静かな深い藍色の海に浮かぶ。
 遠い遥かな昔から、この地の人々の心に宿る山である。
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