NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/7


お吉が淵 Okichiga-fuchi 

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 お吉が淵(おきちがふち)は静岡県下田の生沢川にある深淵である。唐人お吉(とうじんおきち)で有名なお吉が身を投げたことからこの名がつけられた。
 評判の芸妓であったお吉は、一七歳の時、幕府の策で恋人の鶴松との仲をさかれ、日本初のアメリカ領事館の総領事タウンゼント・ハリスの世話役を命じられた。ハリスの帰国後は唐人に仕えた女と嘲笑され、一時は、結婚して小料理屋も開いたが、やがて、病苦と貧困の果てにこの淵に身を投げたといわれる。
 身寄りのなかったお吉の亡骸は近くの宝福寺の住職が供養し、宝福寺はお吉の菩提寺となった。
 昭和三〇年代に、付近の人々によりお吉堂が建立され、宝福寺のお吉の墓も新しくされた。
 毎年お吉の命日には祭りが開かれている。また、宝福寺のお吉の墓には今でも芸能人をはじめ多くの人が訪れている。
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2007/11/22


舞妓 Maiko 

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 舞妓(まいこ)とは、大体20歳ぐらいまでの芸妓(げいこ、げいぎ)見習いの若い女性である。
 芸妓とは、花街にて唄や踊り、三味線などの芸で宴席に興を添える事を仕事とする女性で、座敷や舞台に上がる時は白塗りの厚化粧をするが、舞妓は同時に日本髪を結い、華やかな花簪を挿す。
 舞妓とは、芸妓になる前の未成年の少女のことで、舞妓として約5年間修行した後、芸妓になる。
 舞妓・芸妓は京都の祇園をはじめとする花街の置屋(おきや)に所属しており、そこから各お茶屋へ送り出される。
 舞妓の始まりは、江戸時代中期の1700年頃、水茶屋で働いていた茶汲女(ちゃくみおんな)や茶点女(ちゃてんおんな)が始まりだと言われている。
 最初は参詣人に茶をふるまう程度だった水茶屋も、やがて茶が酒になり、茶汲女や茶点女が歌を聞かせ舞を見せ、永い年月を経て舞妓、芸妓になったとされる。
 舞妓は、非常に厳しい独特のしきたりや伝統を持つ職業である。
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2007/11/14


京都祇園 Kyoto-Gion 

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 京都祇園(きょうとぎおん)は、京都府京都市東山区近辺の、八坂神社の門前町として栄えた花街である。
 鴨川から八坂神社までの四条通沿いに発達した場所で、かつては祇園門前町として参拝人目当ての水茶屋が軒を並べ、遊里として島原をも凌ぐほどに発展していた。
 京都の代表的な繁華街であり、芸妓・舞妓がいる事や劇場、茶屋、料亭、バーなどが並び、格子戸の続く家並みには昔日の風雅と格調が偲ばれる。
 観光客にも大変人気で、花見小路や新橋通りの石畳と通り沿いの町屋の風景は、とても現代とは思えない、幻想的で昔懐かしい情緒を感じさせてくれる町並みを形成している。
 京都祇園は、時代の流れを忘れさせる、雅で粋な場所である。
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2007/7/31


梅花祭 Baika-sai 

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 梅花祭(ばいかさい)は、古都京都にふさわしい、歴史と伝統のある北野天満宮の祭典。「梅花御供(ばいかのごく)」の神事、皇后陛下の御代拝が行われる。
 北野天満宮は天暦元(947)年、菅原道真公の御霊を鎮めるために創建された神社であるが、この祭りは御祭神道真公の祥月命日である二月二五日に行われるようになったのが始まりで、古くは「菜種御供(なたねのごく)」と呼ばれていた。
 ご祭神を「なだめる」という意味と菜種の語音が通じるということで菜種の花を供えていたものが、明治以降新暦の二月に行なわれるようになったことから梅の花を用いるようになり、次第に「梅花御供」と呼ばれるようになったという。今でも神職などは、冠に菜の花をつけてご奉仕を行う。
 当日は豊臣秀吉公が北野大茶湯を催したことに因んで「梅花祭野点大茶湯」が催され、花街から北野天満宮にゆかりの上七軒総出で執り行われる。野点茶席が設けられ、満開の梅の花とともに芸妓や女将が奉仕してくれるという優雅な催しである。
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2007/6/7


高島田 Takashimada Taka-shimada

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 高島田(たかしまだ)とは、根元を高く仕立てた島田髷の一種である。
 島田髷は、江戸初期、東海道島田宿(静岡県島田市)の遊女の髪形から広まったので「島田髷」と呼ばれたと言われている。
 高島田は、島田の変形のうちでは比較的早くに誕生した格の高いものである。
 上流武家の女性が結ったもので、正式な儀式の場では必ずと言っていいほどこれを結う。根が高いものは武家の女性に結われたが、町娘や芸妓などにも好んで結われた。
 文金高島田は最も根が高く上品な形をしている。「文金」とは男子の結髪様式である文金風の意味で、その上品で優雅な印象から、次第に花嫁に用いられるようになっていった。
 高島田は、江戸時代にあった300もの髪型の中でも人気の、華やかな髪型である。
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2007/4/23


上七軒歌舞練場 Kamishitiken-kaburenjou 

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 上七軒歌舞練場(かみしちけんかぶれんじょう)は京都市上京区真盛町の花街に位置する演舞場である。
 室町時代に北野天満宮が焼失、再建の折の残木で七軒の茶屋を建てたことが起源と言われている。京都でも最古の花街のひとつであり、多くの舞妓、芸妓を輩出した土地として知られる。
 歌舞練場は舞妓たちが芸を学ぶ稽古場として使われており、風雅な庭園を持つ建物である。
 夏場は庭先にビアガーデンが設けられ、舞妓たちと身近に接することが出来る。一見の客も気軽に楽しめる場として人気が高い。
 毎年4月中旬には「北野をどり」が開催され、舞妓、芸妓らによる華麗な舞踊や舞踊劇が披露され、多くの観光客を楽しませている。
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2007/4/13


石川 三弦 Ishikawa sangen Ishikawa Sangen

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 通称「三味線」と呼ばれる三弦(さんげん)は、もともと中国の元の時代に作られた蛇皮線(じゃびせん)が元となっており、今から約430年前に琉球を経て日本に伝来した。
 石川県では金沢の東茶屋街、西茶屋街、主計町(かずえまち)の茶屋街と温泉街など花柳界に支えられて発展した。また加賀藩の3代藩主・前田利常らが文化立藩を推進したこともあり、歌舞伎興行などが盛んに行われたため、三弦は金沢の地に普及していったのである。
 三弦は邦楽や民謡、長唄には欠かせない民俗楽器として、芸能遊芸の非常に盛んな石川県に欠かせない存在である。
 金沢にある「福嶋三弦店」は創業百年を超える老舗で、現在は唯一の専門店である。かつては茶屋街の芸妓たちの注文を一手に引き受けていたという。
 今も昔ながらの手作業であたたかみのある三弦が作り続けられている。
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2007/1/31


ぽち袋 Pochi-bukuro Pochi-bukuro (envelopes for New Year's gift money)

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 ぽち袋とは正月にお年玉を渡す時に使う袋のこと、お年玉袋の別名。小さなのし袋であり、主に紙製。
 「ぽち」とは関西の方言である「ぽちっと」か関東の方言「これっぽっち」と言われる。「ほんのわずか」という意味であり、花柳界の芸者や芸妓に対して渡す祝儀に対して使われた。
 小額のため、懐紙などに包んでもこぼれるため、袋が使われるようになった。昭和中期頃よりお年玉の袋として使われるようになり、デザインも縁起物などを記したものに変化した。
 現在は子供向けキャラクターなどを描いたものが主流であり、もらう子供たちを喜ばせている。
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