NIPPON Kichi - 日本吉

2008/5/1

金ヶ崎城(敦賀城) Kanegasaki-jou(Tsuruga-jou) 

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 敦賀城(つるがじょう)という別名を持つ金ヶ崎城(かねがさきじょう)は、敦賀湾に突き出した小高い金ヶ崎山に築城された。
 源平時代、木曾義仲との戦いに備えるために、平通盛(たいらのみちもり)が築いたとされる。
 南北時代の武将新田義貞(にったよしさだ)が尊良・恒良親王と嫡男義顕、弟の脇屋義助らと共に入城し、斯波高経(しばたかつね)率いる軍に攻められ大激戦の末破られたが、再度奪還したことでも知られている。
 落城の際には尊良親王と子の義顕は共に自害したとされ、その親王自刀の地というのが残されている。また城址の麓には金ヶ崎宮が建てられ、両親王が祀られている。
 元亀元(1570)年、織田信長の朝倉景恒(あさくらかげつね)を下した「金ヶ崎の退き口」もまた有名である。
 数々の激戦の舞台となった城は、昭和九(1934)年に国の史跡指定を受け、現在も大切に整備されている。

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住所
914-0064 福井県敦賀市結城町
名前
金ヶ崎城(敦賀城)




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