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2008/8/22


斑鳩寺 三重塔 Ikaruga-dera Sanjuu-no-tou 

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 斑鳩寺(いかるがでら)は、兵庫県揖保郡太子町鵤にある天台宗の寺である。本尊は釈迦如来・薬師如来・如意輪観音。聖徳太子霊跡28番、新西国三十三箇所霊場第32番札所とされる。
 推古天皇一四(606)年、聖徳太子が当時住んでいた大和国斑鳩宮からこの地に来て伽藍を建設し、斑鳩莊と名付けたのが斑鳩寺の創始と言われている。
 三重塔は、室町末期に建造されたといわれるが、当初の塔は戦国時代に焼失し、後に領主・赤松政秀により永禄八(1565)年に再建された。国の重要文化財に指定されている。
 塔は、本瓦葺、高さ24.85mで、四方に石段があり、擬宝珠高欄を付した縁をめぐらす。中央間板唐戸で、脇間連子窓、中備えは三間とも、柱の肩に蓑を着せたような装飾を付けた蓑束(みのづか)となっている。
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2008/3/6


興福寺 大湯屋 Koufuku-ji Ooyuya Kofuku-ji Temple, Ooyu-ya Bathhouse

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 興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある法相宗大本山の寺院である、藤原氏の氏寺である。本尊は釈迦如来で、西国33箇所第9番、西国薬師霊場第4番札所とされている。
 天智天皇八(669)年、藤原鎌足夫人により現在の京都市山科区に山階寺(やましなでら)という名称で創建され、和銅三(710)年、藤原不比等によって現在地に移転、興福寺と改称された。
 大湯屋(おおゆや)は、五重塔の東方に建っている中世の風呂で、創建年代は不明であるが、現在のものは応永三三(1426)年頃の再建とされ、国の重要文化財に指定されている。
 南北四間・東西四間の本瓦葺で、西側は入母屋造、東側は切妻造となっており、中には口径136cmの大きな鉄の湯釜が2基存在し、沸かしたお湯から立ちのぼる蒸気にあたる蒸し風呂となっている。
 中世以後は、大衆蜂起の衆議所としても使われた。
 興福寺の大湯屋は、中世の浴室建築として大変貴重な建物である。
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2008/2/18


観音正寺 Kannon-shou-ji Kannonshoji Temple

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 西国三十三箇所は、近畿二府四県と岐阜県に点在する霊場であり、日本で最も歴史がある巡礼行といわれている。
 観音正寺(かんのんしょうじ)は、その第三十二番札所にあたる。
 琵琶湖の東岸、標高433メートルの繖山(きぬがさやま)の山頂付近に位置し、まるで現世と離れるかのように粛々と佇んでいる。
 社伝によると、聖徳太子が近江国に創建した寺院で、鎌倉・室町時代には、近江国守護職・佐々木六角氏の庇護を受け、三十三院の子院を擁し、絶大な勢力を誇ったとされている。
 その後、内戦や移築など時代に翻弄される憂き目も見たが、慶長二(1597)年に再び元の山上に戻った。
 以前のような、きらびやかな勢いはないが、現在も万事吉祥の縁結びの祈祷道場として篤く信仰されている。
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2008/2/7


今熊野観音寺 Imakumano-kannon-ji 

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 西国三十三所観音霊場の第一五番札所の今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)は、京都府京都市にある泉涌寺(せんにゅうじ)の塔頭(たっちゅう)で知られる。
 平安時代初期、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が創建したと伝えられている。
 本堂にあるご本尊は、弘法大師が自ら彫刻したと伝えられている十一面観世音菩薩で、弘法大師が東寺で修行中、山中で熊野権現の化身である翁に出会い、その翁より一寸八分の観音像を授り、体内仏として安置したといわれている。
 脇仏は不動明王と毘沙門天で、本尊と共に信仰を集めている。文暦元(1234)年、後堀河上皇をこの寺に葬り、代々の朝廷の崇敬を得ていた。
 応保元(1616)年、後白河法皇の熊野勧請以来繁栄したが、応仁の乱のときに荒廃した。その後、正徳年間(1711~1716)に勧進復興された。後白河法皇の病気治癒の伝説から、中風や頭痛平癒にご利益があるといわれている。
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2008/2/6


善峯寺 Yoshimine-dera 

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 善峯寺(よしみねでら)は、京都西京区にある寺で、西国三十三観音霊場の第二十番札所にも指定されている。
 長元二(1029)年、源算上人によって開山されたのがその始まりで、長元七(1034)年には後一条天皇より国家鎮護の勅願所とされ「良峯寺」の寺号を賜ることとなる。
 その後の鎌倉時代初期に、後鳥羽上皇から直筆の寺額を賜ったことにより、現在の善峯寺に改められた。
 応仁の乱で焼失してしまったものの江戸時代に入り、五大将軍綱吉の母であった桂昌院の援助により再建がなされた。現在に残っている伽藍の多くはこの時再建されたものである。
 その敷地は広大で西山随一とも謳われ、また高低差のある起伏に富んだ境内は四季の花々で美しく彩られ、国の天然記念物にも指定されている五葉の松などが訪れる人を楽しませてくれる。
 開祖である源算上人は一一七歳という長寿を全うしたとされ、病気平癒や長寿、健康のご利益でも知られる名刹である。
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2007/12/3


四天王寺 どやどや Shitennouji Doyadoya Shitennou-ji Doya-doya Festival

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 四天王寺(してんのうじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある和宗総本山の寺院である。本尊は救世観世音菩薩で、西国三十三箇所番外、摂津国八十八箇所25番、聖徳太子霊跡1番札所とされている。
 推古天皇元(593)年、聖徳太子自らが建立した古刹である。
 どやどやは、天長四(827)年に修正会(しゅしょうえ)をはじめたのが起源とされ、日本三大奇祭に数えられている。
 元旦から始まる修正会は、その年の吉祥を祈り、天下泰平・五穀豊穣を祈願するもので、毎年一月一四日が結願日となっている。
 赤と白の二組に分かれた、鉢巻きとまわしをしめた裸の若者達が護符を奪い合う勇壮な行事で、その後に護符を受けようと、どやどやと群衆が集まる事から「どやどや」と呼ばれるようになった。
 四天王寺のどやどやは、今日でも盛況な伝統の神事である。
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2007/9/28


叡福寺 Eifukuji Eifukuji Temple

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 叡福寺は「聖徳太子」の墓所となる古墳があることで有名。聖徳太子の和の道を基本にした「新西国三十三ヶ所霊場」のひとつである。
 聖徳太子の没後、聖武天皇の勅願により、太子の霊を鎮める理由で神亀元年(724年)に建てられた。
 戦国時代、織田信長の焼き討ちにより全焼。その後豊臣秀頼が聖霊堂再建に着手した。
 石段を上ると、南大門が見える。門をくぐり、左手には宝搭、金堂、聖霊殿がある。さらに奥へと向かうと太子廟が見えてくる。
建物内にある「聖霊殿」は重要文化財に指定されており、中に祀られている本尊は聖徳太子が十六歳の時の等身像とされている。この像は宮中にあったものを文治3年(1187年)に後鳥羽天皇により下賜されたものであるという。
 周辺には「聖徳太子ゆかりの地」が点在しており、太子守護の歴史を深さを感じる場所である。
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2007/9/21


石山寺 多宝塔(国宝) Ishiyama-dera Tahou-tou Tahoto Pagoda at Ishiyamadera Temple (National Treasure)

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 石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺にある東寺真言宗別格本山である。本尊は如意輪観音。西国三十三箇所第一三番、江州三十三観音第一番、近江三十三観音第三番札所とされる。
 天平一九(747)年、聖武天皇の勅で建立されたと伝えられる、京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ日本でも有数の観音霊場で、開基は良弁(ろうべん)。
 多宝塔(たほうとう)は、建久五(1194)年の建立で、年代の明らかなものとしては日本最古の多宝塔とされる。
 塔は、高さ17・2mで桧皮葺、擬宝珠高欄を付した縁をめぐらし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも間斗束となっている。
 内部には快慶作の大日如来像を安置しており、日本三名塔の一つとされ、国宝に指定されている。
 石山寺の多宝塔は、屋根の描く曲線美と調和して均整美と安定感を併せ持つ古代建築の傑作である。
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