NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/5/15


俳句 Haiku 

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 俳句(はいく)は、五文字、七文字、五文字から成る日本独自の定型詩であり、世界最短の詩としても知られている。
 日本の伝統的詩形の一つである「連歌」から派生した「俳諧連歌」の、第一行目である発句を独立させる形で生まれた近代文芸である。
 室町時代に入り、連歌より俳諧連歌が大いに嗜まれていたが、江戸時代に松尾芭蕉が、自立性の高い発句を数多く詠んだことが源流となり、その後の明治に入って正岡子規の文学運動によって俳句として自立、発展していくこととなった。
 五、七、五の音数による言葉を発した時のリズムと、季節を象徴的に示す「季語」、発句の完結性を表す「切れ」によって、非常に短い詩でありながら心象を大きくひろげることができる特徴を持っており、今も昔も人々をひきつけて止まない魅力となっている。
 現代においても性別や年齢を問わず、俳句と聞けば言葉は簡単に出ずとも五、七、五のリズムを思い浮かべることができるほど、日本人の深くに浸透している詩の形式でもあるだろう。
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2008/3/12


高浜虚子句碑 Takahama-kyoshi-kuhai 

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 成田山新勝寺大本堂の後方に広がる、一六万五千平方メートルの大庭園、成田山公園には、様々な句碑や銅像がある。その中に高浜虚子(たかはまきょし)の句碑が建っている。
 俳人であった高浜虚子は、正岡子規に師事し、正岡子規が友人とともに創刊した俳句雑誌「ホトトギス」の発行を引き継ぎ、俳句の普及と後輩の育成に努めた。
 この公園には、もともと七代目市川団十郎とその父である六世団蔵の銅像があった。明治四三(1910)年、日本初の俳優の銅像として成田山公園に七代目団蔵が奉納したものである。
 しかし、銅像は昭和一八(1943)年の第二次世界大戦時に供出されたため、その代わりに八代目団蔵が、七代目団蔵の供養に加え、団蔵と交流のあった高浜虚子の句碑を建てた。
「凄かりし 月の団蔵 七代目」
 二三人の俳人と一緒に成田を訪れた高浜虚子が、明治三三(1900)三月号の文芸雑誌「ホトトギス」に、その時の様子を「成田詣」という題で記している。    
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2006/11/29


愚陀仏庵 Gudabutsu-an Gudabutsuan 

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 愚陀仏庵は、愛媛県松山市にある夏目漱石ゆかりの史跡。漱石が明治26年(1893年)に英語教師として松山へ赴任した折に下宿、一時期正岡子規が居候していたこともある2階建て住まいだ。現在、市立子規記念博物館と萬翠荘裏に復元・建造されている。
 愚陀仏庵の名付け親は正岡子規。子規の同居時にはここ愚陀仏庵に俳句仲間が集まってにぎわったという。子規が日本派俳句結社「松風会」の会員に日夜、俳句の指導をし、漱石も自らを「愚陀仏」と称して俳句に熱を上げた。当時、文学者として迷いがあった漱石にとって、俳句は格好の自己表現の道標となったのである。
 その後夏目漱石は1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。文豪としての道を歩む。愚蛇仏庵は、漱石にとって創作の原点だったのかもしれない。
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子規堂 Siki-dou Shiki-do

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 子規堂は愛媛県松山市にある、松山出身の俳聖正岡子規にちなむ観光施設である。子規が17歳まで過ごした生家の一部である8畳の書院を正宗寺の境内に復元したものだ。
 内部には子規の子ども時代の勉強部屋を再現したコーナーがあり、彼が愛用した簡素な文机や座布団、筆などが当時の面影そのままに陳列されている。また、遺墨、写真、文献などの貴重な資料が数多く展示されており、文学資料館の役割も果たす。
 境内には高浜虚子、内藤鳴雪ゆかりの碑、漱石が小説の中で「マッチ箱のような汽車」と称した通称「坊ちゃん列車」の客車などもあり、俳都松山独特の情緒ある雰囲気に浸ることができる。
 子規堂は、昭和23年に愛媛県指定の史跡に認定された。
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