NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/12


乱箱 Midare-bako 

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 乱箱(みだればこ)とは、香道において最低限必要な道具を入れておく浅い箱である。
 仏教と共に日本に伝えられた香は、平安時代には個人の趣好、知的感覚により薫物が作られ、室町時代・東山文化隆盛の頃、香木を使用する聞香形式が整えられた。
 香を聞くために最低限必要なものは、香木とそれを暖める道具で、乱箱は、点前に必要な香道具を納めて香席に据え付けておき、そこから地敷に香道具を並べるための蓋のない箱である。
 乱盆(みだれぼん)ともいい、蒔絵のものが多いが、桑生地を使用するものもある。
 中には手記録紙(てぎろくし)と手記録盆(てぎろくぼん)、銀葉盤(ぎんようぽん)、火道具(ひどうぐ)と香じ建(きょうじたて)、重香合(じゅうこうごう)、総包・惣包(そうづつみ)、聞香炉(もんこうろ)などが入っている。
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2008/8/21


美川のおかえり祭り Mikawa-no-okaerimatsuri 

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 美川のおかえり祭り(みかわのおかえりまつり)は、石川県白山市美川南町の藤冢神社(ふじつかじんじゃ)にて、毎年五月の第3土、日曜日に行われている春祭りである。県の無形民俗文化財に指定されている。
 藤冢神社は旧美川町の産土神として知られている古社で、祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)。
 祭りの起源は不明だが、本吉町奉行所の記録から、文化八(1811)年には行われていた事が確認されている。
 祭りでは、青年団による高らかなラッパを合図に紋付袴の青年団員に担がれた神輿が、蒔絵や漆で意匠を凝らした13台の台車に先導され厄払いを祈願し町内を巡る。
 日曜夜に、10年毎に巡ってくる「おかえり筋」と呼ばれる道を通り、月曜早朝、ラッパ隊と神輿が藤冢神社に戻って来る。
 美川のおかえり祭りは、町内外から多くの人が訪れ、美川の町が祭り一色に染まる伝統行事である。
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蒔糊 Makinori 

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 蒔糊(まきのり)とは、日本に伝わる防染糊(ぼうせんのり)、あるいはこれを使った染色法の事である。
 染色法としては、防染糊を竹の皮などに塗って天日で乾燥させたものをはがして粉末にし、糊を細かく砕き、布の上に蒔いて防染剤にする技法で、江戸時代には「撒糊(まきのり)」と呼ばれていた。
 角張ったままの形に砕いた糊を、蒔絵ふうに着物の全面に蒔き、染め分ける色の順序によって微妙な色相変化が生み出される。
 糊を蒔いては別の色で染める工程を繰り返すことを「重ねる」といい、西洋の印象派絵画のような点描表現を、生地の上に描く事が出来る。
 また、染料をまぜた色糊を使えば、反対に糊のところだけ色をつける事も出来る。
 蒔糊は、点模様で表現する事が出来る、伝統の染色法である。
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2008/8/4


本阿弥光悦 Honami-kouetsu Hon’ami Koetsu

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 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、江戸時代初期の書家、芸術家。当代随一の数寄者として名を馳せるた。
 永禄元(1558)年、刀剣の鑑定や研磨を家業とする京都の本阿弥家に生まれ、書道や陶芸、漆芸、出版、建築、作庭など多岐にわたってその才能を発揮。
 特に書道の分野ではその才能を発揮し、近衛信尹(このえのぶただ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)と共に「寛永の三筆」と呼ばれ、和様書道の流派の一つである光悦流を創始した。
 同時代の俵屋宗達や尾形光琳らとともに「琳派」と呼ばれる作風を打ちたて、国宝の「楽焼片身替茶碗」や「舟橋蒔絵硯箱」、重要文化財の「鶴下絵和歌巻」などが残されている。
 元和元(1615)年には徳川家康から京都洛北の鷹ヶ峯に地を与えられ、一族とともに職人や町衆を集めて「光悦村」と呼ばれた芸術村を築いた。
 本人自身による製作の他に、製作総指揮のような役割も担っていたと考えられている。
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2008/8/1


棗 Natsume 

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 棗(なつめ)は、茶器の一種で抹茶を入れるのに用いる木製の漆塗りの蓋物容器であり、植物の棗の実に形が似ていることからその名が付いたとされる。
 足利時代後期の塗師、羽田五郎により茶人、村田珠光に納めたものが最初とされるが、詳しい由来は定かではない。
 江戸時代初期までは棗が茶器に限らず用いられていたようで、元来は薬などを入れていた黒漆塗りの器の一種だと考えられており、茶器として一般に定着したのは千利休が好んだことも理由の一つとされている。
 こうした経緯もあって、単純な黒漆塗りのものだけでなく、茶室の趣ある書院飾りでも映えるように豪華な蒔絵が施されるようになり、今のような華やいだ茶器へと至ったとされている。
 その形も「利休型」と称される大棗・中棗・小棗を基本形として多くの種類が存在し、今も茶室の亭主座の傍らで、侘び・寂びの演出に一役買っている。
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2008/4/22


金沢桐工芸 Kanazawa-kirikougei Kanazawa Paulownia Woodwork

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 加賀百万石、昔からの華やかな気風を受け継ぐ石川県の金沢桐工芸。
 雪がもたらす良質の桐材と加賀三代藩主、前田利常(まえだとしつね)の美術工芸振興策により誕生した加賀蒔絵が合わさったものである。
 桐といえば白木の桐の箪笥として有名であるが、金沢の桐箪笥といえば表面を焼いて磨いた独特の焼肌をもち、その上に蒔絵が施されている。桐の軽さと独自の色合いが、他にない桐工芸を作り上げていったのである。
 さらに明治時代に入り加賀蒔絵の巨匠、大垣昌訓(おおがきしょうくん)が桐火鉢に蒔絵を施す技術を考案し、一気に金沢桐工芸は全国に知れわたる工芸品となった。
 石川県では桐火鉢は嫁入り道具の必需品となり、かつて桐火鉢は冬の暖房の主役として全国で愛用されていた。
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2008/1/22


鳴子漆器 Natuko-shikki Naruko Lacquer Ware

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 鳴子漆器(なるこしっき)は、宮城県大崎市鳴子温泉に伝わる工芸品である。国の伝統的工芸品に指定されている。
 寛永年間(1624~1643)、当時の岩出山藩三代城主・伊達弾正敏親が塗師・村田卯兵衛、蒔絵師・菊田三蔵を京都に派遣し修行させ、鳴子漆器の振興を図った事から発達し、その子孫が伝承して今日に至る。
 挽物木地の塗立て技術には、塗りは木目を生かした木地呂塗(きじろぬり)やふき漆仕上げ、また独特の墨流しの技法である竜文塗(りゅうもんぬり)があり、伝統的な塗立て技術による製品には、しっとりとした美しさがある。
 また、木地に厚みがあり、いく重もの重ね塗りにより、長期の使用に耐えられるのも特徴とされる。
 鳴子漆器は、日常生活に根ざした味わい深い伝統工芸品である。
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2008/1/17


会津塗 Aizu-nuri 

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 会津塗(あいづぬり)は福島県会津若松市を中心に生産される漆器で、椀、重箱、茶托(ちゃたく)、盆などがある。昭和五〇(1975)年、通産大臣(現経済産業大臣)により伝統的工芸品に指定された。
 安土桃山時代に、豊臣秀吉の命を受けて会津の領主となった蒲生氏郷(がもううじさと)が、産業として奨励したことに始まる。近江の漆器職人を呼び寄せ、その技法を会津に広めた結果、漆器は会津の一大産業となった。
 幕末の戊辰戦争で壊滅的な打撃を受けるも、明治時代中期には再び活気を取り戻し、会津は日本有数の漆器産地として、今もその名をとどろかせている。
 工程によって、それぞれの専門職人が分業で行うのが特徴。そのため、より高い品質と能率的な生産を実現している。椀などロクロを使用して丸物を作る木地師(きじし)、重箱などカンナを駆使して板物を作る惣輪師(そうわし)、それらに豪華な飾りを施す蒔絵師(まきえし)・漆絵師(うるしえし)・沈金師(ちんきんし)がいる。縁起の良い図柄で人気が高い。
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