NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/24


山口 吉香神社 Yamaguchi Kikkou-jinja 

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 吉香神社(きっこうじんじゃ)は山口県岩国市に鎮座する神社である。
 この神社はもともと天文年間(1532~1554年)に岩国領主であった吉川元春(きっかわもとはる)が祖先の霊を祀るため建立したものである。現存する社殿は享保一三(1728)年造営され白山神社境内に鎮座していたが、明治一八(1855)年に現在の旧城跡に移設された。
 神社は一の鳥居から拝殿、本殿と南から北に一直線に並んで建てられている構成である。神門は小さな四脚門で吉川家家紋が刻されている。拝殿は檜皮葺、入母屋造りである。また、拝殿と本殿は複雑な架構と屋根形式が巧みにおりあい、岩国大工の技術の粋を見せる建築物として有名である。拝殿、本殿、神門は県指定の有形文化財となっている。
 境内の西側には、元は吉川家の代々の家臣の回向所であった建物が明治に入り褒忠社(ほうちゅうしゃ)として吉香神社の末社となっている。
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2008/7/15


紙本著色即非画像 Shihontyakusyoku-sokuhi-gazou 

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 福岡県指定有形文化財となっている「紙本著色即非画像(しほんちゃくしょくそくひがぞう)」は、北九州市の福聚寺(ふくじゅじ)にあったものである。
 即非とは、京都万福寺を開いた明僧・隠元が、明より招き寄せた黄檗(おうばく)僧である。長崎の崇福寺に入り、書に優れた僧として名高く、隠元、木庵と並んで黄檗の三筆「隠・木・即」と呼ばれていた。
 寛文三(1663)年、初代小倉藩主・小笠原忠真(おがさわらただざね)に請われ、寛文五(1665)年に福聚寺を開いた。
 紙本著色即非画像は、寛文一一(1671)年に描かれた大幅と、寛文八(1668)年につくられた小幅の二幅からなる。
 この作品は、画家の喜多元規(きたげんき)の中期の作品である。もっとも有名な黄檗肖像画家で、顔の痘痕(あばた)や髪の毛の一本一本まで詳細に描き込まれ、写実性の高い内容となっている。
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2008/5/26


阿豆佐味天神社(立川水天宮) Azusamiten-jinja(Tachikawa-suitenguu) 

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 立川市砂川にある阿豆佐味天神社(あずさみてんじんじゃ)は寛永六(1629)年、現在の西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷、殿ヶ谷村・阿豆佐味天神社より勧請され、この地区の新田開発の守り神として創建された神社である。
 医薬神として知られる少彦名命(すくなひこなのみこと)と天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭神としている。
 総けやき造りの本殿は、元文三(1738)年創建の市内最古の建築物といわれ、有形文化財に指定されている。
 昭和三六年(1961)年、砂川五番より遷座された水天宮は「立川水天宮」と呼ばれ、安産の守り神として篤い信仰を集めているという。
 境内には、砂川地区の養蚕業を長年見守ってきた蚕影神社(こかげじんじゃ)がある。最近では、祈願すると行方不明になった猫が無事に帰って来る「猫返り神社」として、訪れる愛猫家も多いという。
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2008/4/25


刀銘源正雄 Toumei-minamotono-masao 

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 「刀銘源正雄(とうめいみなもとのまさお)」は、昭和四五(1970)年、北海道の有形文化財に指定されている。
 安政五(1858)年、江戸から招いた刀工・源正雄が制作した刀剣は、長さ七〇、四五センチメートル、反り一、八センチメートルの一振で、函館近隣でとれる砂鉄を使用し、刀を鍛造したといわれている。
 源正雄は本名を鈴木次郎という。美濃国で生まれ、江戸に出て下谷御徒町に住み、源清麿(みなもとのきよまろ)に学んだ名工である。
 栗原信秀や斉藤清人の兄弟子で、合わせて清麿三高弟と呼ばれ、人気の高い名工であった。愛刀家が愛蔵し、源正雄の作品は世に出回る事が少なく、大手の刀剣店でも滅多に目にする事は出来ない。
 刃(やいば)の形状を表現するもので、馬の歯乱(うまのはみだれ)という言葉がある。源正雄の作品には、規則正しく焼き入れた大きめの互の目乱と呼ばれる刃文(はもん)が入り、その様子が馬の歯並びを思わせる特徴があることから、幅広く角張った互の目乱を「馬の歯乱」と呼んでいる。
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2008/3/18


松前屏風 Matsumae-byoubu 

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 北海道松前町は、道内で唯一の城である松前城がある。安政元(1854)年に完成した、我が国最後となった日本式城郭である松前城は、復元された天守閣の内部が資料館となっている。そこに展示されているのが、往時の様子を描いた「松前屏風(まつまえびょうぶ)」で、北海道有形文化財に指定されている。
 江戸時代中期に活躍した松前の画家・小玉貞良(こだまていりょう)が、宝暦年間の松前城下を描いたものである。
 この屏風は、蝦夷地の交易に活躍した近江八幡の商人で、小樽の場所請負人でもあった恵比須屋岡田弥三右衛門が描かせたものである。松前での繁盛ぶりを伝えるために屏風をつくったといわれ、高さ約一、六メートル、横約三、七メートルの大きさに、当時の風俗、交易の様子などが描写されている。
 近江八幡の商人は、北前船で蝦夷地のニシン・コンブ・干しアワビをを京都や大阪に持ち帰り、呉服・米・みそ・しょうゆなどを松前に運んで商いをしていた。
 現物は非公開で、現在資料館にて原寸大の複製が展示されている。
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2007/12/26


旧上関番所 Kyuu-kaminoseki-bansho Kaminoseki Guard Station

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 山口県上関町長島に所在する「旧上関番所(きゅうかみのせきばんしょ)」は、江戸時代に藩の出先機関として、港の警備や見張り、積荷の検査などを行う役人の詰め所として利用されていた。
 藩政時代初期の数少ない行政機関の遺構として大変貴重で、かつては港の中にあったものを平成八(1996)年に現在の場所に移築、復元し当初の姿に蘇らせた。
 瀬戸内海西部には船の荷を検査する番所がいくつか設置されていて、現在の山口県においても、都に近い方から「上関」「中関」「下関」と番所が設置されていた。
 上関番所は桁行11・66m、梁間3・86mの本瓦葺きの木造入母屋造りで、四面に下屋を持つ建物である。県指定の有形文化財になっている。
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2007/12/14


花尾神社 Hanao-jinja 

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 花尾神社(はなおじんじゃ)は鹿児島市花尾町にある島津藩所縁の神社。国道を少し離れた田園風景の中に朱塗りの赤い鳥居が立ち、杉の林へ参道が伸びている。
 島津氏初代・島津忠久は源頼朝と丹後局の間に生まれた子という伝説がある。この神社は忠久が薩摩・大隅・日向の三州の守護職に任ぜられた際に御堂を建て、頼朝尊像を安置、創建した。
 現在残る社殿は正徳三(1713)年建立のもの。幣殿や向拝に、鶴と松、牡丹と唐獅子、様々な花や長い牙をもつ象など、明るい色彩の細かな彫刻と装飾がある。さつま日光とも称されており、いつまでも見ていたくなる様な風情だ。
 天井絵は401枚の彩色による精密な草花の写生絵が見られる。嘉永六(1853)年狩野派の絵師・能勢一清が描いたとされているが、現存している絵がそうであるかは定かではない。
 社殿の横には丹後局の墓、御苔石があり、安産・子授のお守りに石の苔を持ちかえる人が多い。
 昭和五五(1980)年に県の有形文化財となっている。
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2007/12/6


石堂寺 多宝塔 Ishidou-ji Tahou-tou The Tahoto Pagoda at Ishidoji Temple

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 安房最古の名刹と呼ばれる、行基菩薩により開創された天台宗・石堂寺(いしどうじ)には、今も多くの貴重な文化財が残されている。
 天文一四(1545)年、戦国大名・里見義堯(さとみよしたか)によって創建されたと伝えられる、高さ一三mの多宝塔もそのひとつである。
 石堂寺の多宝塔は県指定の有形文化財になっており、桧皮葺の屋根や精巧な彫刻がとても美しい塔である。
 多宝塔は二重の塔と呼ばれ、一階が方形、二階部分が円形となっているものをいう。一階内部には四本柱が立てられており、須弥壇上には木造の千手観音像が安置されているといる。
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