NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/28


平塚宿 Hiratsukajuku 

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 平塚宿(ひらつかじゅく)は、東海道五十三次の宿場のひとつ。現在の神奈川県平塚市にあった。
 慶長六(1601)年に宿駅制度を成立させた徳川家康は、日本橋から京都までを結ぶ幹線道路として東海道を整備し、寛永年間までに53箇所の宿場を作った。平塚は、宿駅制度成立と同時に日本橋より7つめの宿場に指定された。本陣・脇本陣のほか約50軒の旅籠屋があったが、宿泊より休憩に使われることが多かったようである。
 平塚宿を描いた浮世絵は、安藤広重作のものを始め、多くの作品が残されている。平塚より望む富岳や大山、市内を横切る高麗山などがモチーフとなっている。平塚宿を出て西に向かえば、高麗山が前面に立ちふさがる様子は、昔も今も変わらない。
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2008/10/3


原宿 Harajuku 

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 原宿(はらじゅく)は、東海道五十三次の宿場のひとつで、江戸日本橋から数えて13番目の宿。現在の静岡県沼津市にあった。
 原宿は沼津宿と吉原宿の間に設けられた東海道の中では小さな宿場である。しかし浮島沼を背景にした富士山の眺めは街道一といわれ、安藤広重を始め多くの浮世絵師によって描かれている。
 現在は残念ながら宿場町の面影を残すものは数少ないが、かつての旅籠屋を継いで今も営業している旅館も残る。今では近代的な建物になっているが、中に入ると奥行きは長く、宿場の建物であったことを実感できる。また、街には旅籠屋や本陣跡を示す案内板なども立ち、かすかに往時の名残をとどめている。
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2007/10/3


亀山宿 Kameyama-juku Kameyama-juku

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 亀山宿(かめやまじゅく)は、三重県亀山市の東部にある、東海道四六番目の宿場町。
 宿場町であるが、城下町としても栄えた。多くの史跡が存在し、亀山城跡や石井兄弟敵討跡、江戸口門跡、京口門跡等が今もその姿を残している。
 安藤広重が描いた「東海道五十三次之内亀山」では、副題を雪晴とし、雪という気候の変化をテーマとしている。深い雪と斜面に生える木を描いているが、淡墨で描かれた真白い雪に美しさを感じる反面、当時の旅の困難さもうかがえる。
 現在、周辺には城の一部が移築再建された寺や、屋敷、直角に曲がった細い路地などが残り、城下の名残を残している。
 
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2007/9/18


双剣石 Souken-seki 

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 双剣石(そうけんせき)は、鹿児島県南さつま市坊津町の網代浜にある天然の2つの岩である。国の名勝に指定されている坊津の、代表的景観とされる。
 双剣石は雄岩が27m、雌岩が21mあり、荒削りの岩が海に2つ鋭い剣のように突き出しているのでこの名がついたと言う。
 江戸時代の版画家・安藤広重の浮世絵にもなっており、また江戸時代に編まれた三国名勝図会には「坊津八景」の一つとして描かれている。
 坊津八景は、戦国時代に豊臣秀吉によって都から流された近衛信輔が、坊津の名勝8か所を和歌に詠んだものである。
 また、梅崎春生の「幻化」の中で主人公・五郎と部下の福兵長が、酒を飲み双剣石まで泳ぐことになる岩としても知られる。
 双剣石は、昔から色々な人々に描かれたり歌を詠まれたりしてきた、風光明媚な名勝である。
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2007/6/21


御油宿 Goyu-juku Goyu-juku

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 御油宿(ごゆじゅく)とは東海道五十三次、三五番目の宿場。現在の愛知県豊川市御油町である。
 東海道が制定されたのは、慶長六(1601)年であったが、この年に伝馬朱印状が発行されており、早い時期から宿場として成立していたことが確認されている。
 この伝馬朱印状では御油・赤坂で一宿と制定されていたためか、本陣の数も多く最多時で4件、少なかった頃でも2件存在していた。
 姫街道(本坂街道の俗称)の分岐点にもなっており、隣の赤坂宿ともに遊興の場としても大いに賑わった。
 また、安藤広重の絵には飯盛女が宿泊客の争奪を行っているように描かれているが、東海道の制定後、独立した赤坂宿との距離が約1・7kmと非常に近かったため、互いにすさまじい客引きをしたと伝えられている。
 現在「御油の松並木」として街道の松並木が御油宿と赤坂宿の間に残っており、当時の面影を残している。
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庄野宿 Shouno-juku Shono-juku

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 庄野宿(しょうのじゅく)は東海道五十三次、四五番目の宿場。現在の三重県鈴鹿市にあたる。
 東海道が徳川家康によって整備されたのは、慶長六(1601)年だが、この庄野宿は最後の寛永元(1624)年に作られた。隣の石薬師宿(いしやくしじゅく)からは一里にも満たない距離で、東は日永の追分、西は関から別ルートを通行することが一般的になっていた。
 そのため人通りは少なく、この宿場を通る客のほとんどは休憩のみだったため、幕府の直轄地であった庄野宿は、不振を理由に人足百人・伝馬百疋から、人足五十人・伝馬五十疋の半分まで幕府により削減が行われることがあるなど、非常に苦労を重ねた宿場でもある。
 そのような不振にあえぎながらも、安藤広重の残した東海道五十三次の中では「庄野」は非常に人気が高く、目にする機会も多い。
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坂下宿 Sakashita-juku Sakashita-juku

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 坂下宿(さかしたじゅく)は、東海道五十三次の四七番目の宿場。
 現在の三重県亀山市にあたる。
 三重県と滋賀県の県境、箱根と並び称された東海道の難所、鈴鹿峠の東麓に位置する。元々は片山神社の参道付近にあったが、慶安三(1650)年の洪水で発生した土石流で壊滅したため、現在の場所に移転することとなった。
 「坂の下では大竹小竹・宿がとりたや小竹屋に」という唄が残っており、「坂下宿の本陣、大竹屋に泊まるのは無理だが、せめて脇本陣の小竹屋に泊まってみたい」という意味で、当時の宿場の旅籠の規模が分かる。
 安藤広重がこの地の絵を残しているが、移転した後の風景を描いている。室町時代の絵師である狩野元信が美しい絶景をうまく描けずに筆を投げたことから名前がついた筆捨山(ふですてやま)が見事に描かれている。
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土山宿 Tsuchiyama-juku Tsuchiyama-juku

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 土山宿(つちやまじゅく)は、東海道五十三次、四三番目の宿場。現在の滋賀県甲賀市、旧土山町にあたる。
 江戸から向かう道中の難所、鈴鹿峠を超えたところに設けられていた。
 「坂は照る照る・鈴鹿は曇る・あいの土山雨が降る」と唄われているように雨が多く、安藤広重の残した「土山春之雨」には絶え間なく雨の降り続く木立の間を、旅人の列が肩を濡らしながら歩く様が表現されている。
 実際には、手前にあたる坂下宿の方が雨量は多かったようだが、鈴鹿峠を境に天候が変わる様子を表現したと推測される。
 現在は当時の旅籠跡や、東海道一里塚跡、本陣跡、松並木など、当時を偲ばせる史跡が複数残されている。
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